『安心論題 十』- 十念誓意
「安心論題(十七論題)」に設けられた論題の一つ。十念誓意はその10番目に位置づけられる。
題意(概要)
第十八願(本願)には「至心信楽欲生我国乃至十念」と誓われている。この内、「至心信楽欲生我国」とは至心・信楽・欲生の三心、つまり信心であり、「乃至十念」とは称名念仏のことである。仏教知識「『安心論題 五』- 信心正因」にあるように、私たちの救いは信心一つで成立している。それにも関わらず第十八願には信心だけでなく称名念仏も誓われている。なぜ阿弥陀仏は第十八願の中で称名念仏も誓われたのか。その意味を考えていくのがこの論題である。
出拠(出典)
出拠は『仏説無量寿経』の第十八願文(本願文)である。以下に第十八願文の漢文と書き下し文を引用する。なお引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。下線は筆者が引いた。
設我得佛・十方衆生・至心信樂・欲生我國・乃至十念・若不生者・不取正覺・唯除五逆・誹謗正法
(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.31 より)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.18より)
なお『仏説観無量寿経』にも十念の語が現れるが、この論題では第十八願の中に十念が誓われた意図を考えるので、そちらは出拠としては扱わない。
釈名(語句の定義)
まず十念について解説する。
善導の解釈
善導大師(真宗七高僧第五祖)は『観念法門』、『往生礼讃』の中で「乃至十念」をそれぞれ次のように言い換えた。つまり十念を十声(十声の称名念仏)と言い換えた。
【『観念法門』より】
(前略)わが名字を称すること、下十声に至るまで、(後略)(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.630)より)
【『往生礼讃』より】
(前略)名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、(後略)(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.654)より)
法然の解釈
法然聖人(同じく第七祖)も『選択本願念仏集』の中で善導の述べたことに同意し、十念と十声とは同じものであると述べた。
問ひていはく、『経』(大経・上)には「十念」といふ、〔善導の〕釈には「十声」といふ。念・声の義いかん。答えていはく、念・声は是一なり。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.1212より)
親鸞の解釈
宗祖親鸞は『尊号真像銘文』、『一念多念文意』の中で次のように述べた。
【『尊号真像銘文』より】
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.644)より)
【『一念多念文意』より】
本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり。称名の遍数さだまらずといふことを。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.686)より)
親鸞も十念を十声の称名念仏と考えていたことがわかる。つまり「十」は数、「念」は称名念仏を表している。
またここでは乃至についても述べられており、念仏の回数が定まっていないことを表していることがわかる。これは少ない回数の念仏も多い回数の念仏も含まれるということである。つまり十という回数が挙げられているものの、これは一例として挙げられただけであり十回称えることをいっているわけではない。乃至十念とは回数に関係なく称名念仏を意味するのである。
なお乃至にはいくつかの用法があり、乃至十念における乃至は仏教知識「乃至」で解説している(後日公開予定)「一多包容」(一の念仏も、多の念仏も含む)、あるいは「総摂多少」(多い念仏も、少ない念仏も摂める)の意になる。
義相(本論)
称名念仏の特徴
先に引用した『一念多念文意』の文にあるように、親鸞は「乃至十念」を回数を限定しない称名念仏と解釈した。さらに親鸞はこの文に続いて次のように述べている。
この誓願は、すなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.686)より)
称名念仏の回数が限定されないということが易往易行の道を表し、ひいては阿弥陀仏の大慈大悲が極まりないことを表しているというのである。
仏教知識「必具名号」で述べたように他力の信心には必ず称名念仏が伴う(伴うといっても同時ではなく時間的な前後関係があり、信心が先である)。ひとたび始まった他力の信心はその後の人生においてもずっと続いてゆき、日々の暮らしの中で称名念仏となって現れる。そのような念仏は困難な行ではなく、容易な行である。これが易往易行の道である。
また、他力の信心が続く期間の長さは当然ながらその人の寿命によって異なり、称名念仏の回数も人によって異なってくる。これが「乃至」といって念仏の回数が限定されていない理由である。つまり数多くの念仏を称えた人も少ない念仏しか称えられなかった人も同じように救われてゆく。このことを表して阿弥陀仏の大慈大悲が極まりないといっている。
まとめると第十八願文に誓われた「乃至十念」は回数を限定しない称名念仏であり、それは日々の暮らしの中で容易に行える行であり、また全ての人を等しく救う阿弥陀仏の慈悲を表しているというのが親鸞の解釈である。
称名念仏の位置づけ
浄土真宗の教えにおいて称名念仏には2つの位置づけがある。
- 正定業 ...... 浄土往生という結果を引き起こす原因となる力・はたらき
- 報恩行 ...... 阿弥陀仏の救いの中に摂め取られていることを感謝する心、喜ぶ心が形になって現れたもの
正定業については仏教知識「『安心論題 十二』- 念仏為本」(後日公開予定)で、報恩行については仏教知識「『安心論題 十四』- 称名報恩」で解説する。
今論じている第十八願文の「乃至十念」における称名念仏にもこの2つの意義がある。先に述べた通り、この念仏は日々の暮らしの中で称えていくものである。この称名念仏には正定業としての意義と報恩行としての意義がある。念仏が日々称えられているということは、この私を救ってくださる阿弥陀仏の力・はたらきが私を救うために現に活動し続けているということである。これが正定業としての意義である。また、念仏を称えるのはこの私が阿弥陀仏の救いの中にあるという感謝の心、喜びの心のあらわれである。これが報恩行としての意義である。
つまり第十八願文に誓われた「乃至十念」には、阿弥陀仏より与えられた他力の信心がこの私が称える念仏となって現れ、それが生涯保たれてゆくという意味が込められている。
結び(結論)
第十八願に信心(至心信楽欲生我国)だけでなく称名念仏(乃至十念)も誓われているのは、信心には必ず念仏が伴うからである(必具名号)。
称名念仏には阿弥陀仏の救いの力・はたらきを表す正定業としての意義と、阿弥陀仏に救われてゆくことを感謝する心、喜ぶ心が形になって現れるという報恩行としての意義がある。この称名念仏はこの私が阿弥陀仏から他力の信心をいただいたすがたとして生涯保たれてゆく。第十八願文の「乃至十念」にはこのような意味が込められている。
参考文献
[2] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[3] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[4] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[5] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)