必具名号

【ひつぐみょうごう】

必具名号とは「安心論題あんじんろんだい」が十七論題に統合される前にあった論題の一つである。十七論題の「しん一念いちねん」(仏教知識「『安心論題 六』- 信一念義」(後日公開予定)を参照)と重なるところが多く、また「じゅうねんせいとは内容的に関わりがある。

題意(概要)

りき信心しんじんには念仏が必ず伴うが、これは信心が始まると同時に伴うわけではなく、信心がけおこった後に出てくるものである。この論題ではこのことを明らかにする。

しゅっ(出典)

しゅう親鸞しんらんあらわした『けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)「信文類しんもんるい」の三一さんいち問答もんどうの結び、「三信さんしん結嘆けったん」のところに次の文がある(仏教知識「三一問答 (5)」参照)。これが出拠である。

真実しんじつ信心しんじんはかならず名号みょうごうす。名号みょうごうはかならずしも願力がんりき信心しんじんせざるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.245より)

しゃくみょう(語句の定義)

みょうごう」は、ここではしょうみょう念仏ねんぶつのことをいっている(※1)。「必具」とは必ずそなわっているということである。必具名号とは他力の信心に称名念仏がそなわっている、つまり他力の信心に必ず称名念仏が伴うことをいう。

※1 名号の解釈
名号そのものと解釈する説もあるが、称名念仏と解釈する説が有力である。親鸞の『教行信証』「行文類」と「化身土文類」にも名号を称名念仏の意で用いた例がある。 仏教知識「三一問答 (5)」、『聖典せいてんセミナー 教行信証 信の巻』P.252-254を参照のこと。

そう(本論)

信心には必ず称名念仏が伴う(ぎょうしん不離ふり

真実しんじつ信心しんじんはかならず名号みょうごうす。名号みょうごうはかならずしも願力がんりき信心しんじんせざるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.245より)

ここで出拠のもんをみると、他力の信心には必ず称名念仏が伴っているが、全ての称名念仏が必ずしも他力の信心にもとづいているとは限らないと述べられている。称名念仏には他力の念仏だけでなくりきの念仏もあるからである。他力の念仏とは異なり自力の念仏は他力の信心に基づかないのでこのように述べられるのである。

他力の信心に必ず称名念仏が伴う理由は2つある。1つには『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』に説かれる本願(第十八願)には信心(しんしんぎょうよくしょうこく)の三心さんしん)と称名念仏(ないじゅうねん)の両方が並べて誓われていることである。これらは他力の信心と他力の念仏であり、阿弥陀あみだぶつしゅじょうに「信じさせ、念仏させ、じょうおうじょうさせる」ことが本願に示されている。そのため信心には必ず念仏が伴うのである。

もう1つの理由は他力の信心そのものが念仏を生み出す必然性を持っているということである。他力の信心は私たち衆生の側からおこしてゆくものではなく、阿弥陀仏の救いの力・はたらきによって成立している。この力・はたらきとは名号南無なも阿弥陀あみだぶつにほかならない。名号南無阿弥陀仏によって信心が成立しているのであるから、信心とはそのまま名号南無阿弥陀仏なのである。このことから、他力の信心をいただいた衆生により名号南無阿弥陀仏が称えられるのは必然といえる。

信心と称名念仏は同時ではない(前後ぜんご不離ふり

ここで他力の信心に称名念仏が伴うタイミングについて考えてみる。つまり、「他力の信心が始まるその瞬間(※2)にも称名念仏は伴っているのだろうか?」という問いである。「必ず伴う」といわれれば始まった瞬間にも当然伴っていると考えるのが自然である。しかし実は「必ず伴う」といっても、それは必ずしも同時であることを意味しない。両者には前後関係があり、信心の始まりが時間的に先、称名念仏の始まりが時間的に後になる。他力の信心そのものが念仏を生み出す必然性を持っているということを先に述べたが、これはまさに両者の前後関係を示している。

※2 他力の信心が始まる瞬間
他力の信心が始まる瞬間(時)というのは「本願に対して疑いの晴れた最初の時」ということである。これを「しんいちねん」、「信心のこく極促ごくそく」という。詳しくは仏教知識「『安心論題 六』- 信一念義」(後日公開予定)を参照のこと。

親鸞は『親鸞しょうにん消息しょうそく』に次のように述べている。

(前略)しん一念いちねんぎょう一念いちねんふたつなれども、しんをはなれたるぎょうもなし、ぎょう一念いちねんをはなれたるしん一念いちねんもなし。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.749より)

誓願せいがん名号みょうごうもうしてかはりたることそうらはず。誓願せいがんをはなれたる名号みょうごうそうらはず、名号みょうごうをはなれたる誓願せいがんそうらはずそうろふ。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.781より)

ここにみられるように、親鸞は信心と念仏とは切り離せないものであると考えていた。これを「行信不離」という。またこれは「同時不離」ではなく「前後不離」であるといわれている。

結び(結論)

他力の信心には必ず他力の念仏が伴うが、両者は同時に起こるものではなく時間的な前後があり、信心が先、念仏が後という順番が決まっている。仏教知識「『安心論題 五』- 信心しんじん正因しょういん」、仏教知識「『安心論題 六』- 信一念義」(後日公開予定)で述べたことと合わせると次のようになる。

  • まず信心が始まる。これを信一念といい、この瞬間に浄土往生・成仏がけつじょうする。この決定には信心のみが関与している(信心正因)。またこれは意識で捉えられる性質のものではない。
  • その後に念仏が始まる。念仏は衆生の行為であり、これは浄土往生・成仏の決定には関与しない。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[2] 『浄土真宗聖典全書(四) 相伝篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2016年)
[3] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[4] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)

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