菩提心釈

【ぼだいしんじゃく】

親鸞しんらんは、三一さんいち問答もんどう至心ししん信楽しんぎょう欲生よくしょうさんしんが信楽の一心いっしんにおさまり、それが真実の信心しんじん金剛こんごう真心しんしん)であることを示した。そして、その信楽の一心こそが他力たりき横超おうちょうの菩提心であることを論証していく。これを「菩提心釈」という。この「菩提心釈」はみょう法然ほうねんの『選択せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』(『選択せんじゃくしゅう』)を「菩提心を撥去はっきょ(はらい捨てる)する過失」があるとして、この教えは仏道ぶつどうではなく邪道じゃどうに過ぎないと厳しく批判したことに対する親鸞の反論である。

「菩提心釈」前半

前半では、竪横しゅおう超出ちょうしゅつそう四重しじゅう教判きょうはんによって、横超の信心が他力の菩提心であり、横超の金剛心であるとした(仏教知識「二双四重(二双四重判)」参照)。

しかるに菩提ぼだいしんについて二種にしゅあり。ひとつにはしゅふたつにはおうなり。またしゅについてまた二種にしゅあり。ひとつには竪超しゅちょうふたつにはしゅしゅつなり。竪超しゅちょうしゅしゅつごんじつけんみつ大小だいしょうきょうかせり。歴劫りゃくこう迂回うえ菩提ぼだいしん自力じりき金剛こんごうしん菩薩ぼさつ大心だいしょうなり。またおうについてまた二種にしゅあり。ひとつには横超おうちょうふたつにはおうしゅつなり。おうしゅつとは、正雑しょうぞう定散じょうさん他力たりきのなかの自力じりき菩提ぼだいしんなり。横超おうちょうとは、これすなはち願力がんりき回向えこうしんぎょう、これを願作がんさ仏心ぶっしんといふ。願作がんさ仏心ぶっしんすなはちこれおう大菩提だいぼだいしんなり。これを横超おうちょう金剛こんごうしんづくるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.246より)

ところで、 菩提ぼだいしんには種類しゅるいがある。 ひとつにはしゅすなわち自力じりき菩提ぼだいしんふたつにはおうすなわち他力たりき菩提ぼだいしんである。 また、 しゅなか二種にしゅがある。 ひとつにはしゅちょうふたつにはしゅしゅつである。 この竪超しゅちょうしゅしゅつは、 ごんきょうじつきょうけんぎょう密教みっきょう大乗だいじょう小乗しょうじょうおしえにかれている。 これらは、 ながあいだかかってとおまわりをしてさとりをひら菩提ぼだいしんであり、 自力じりき金剛こんごうしんであり、 菩薩ぼさつがおこすこころである。 また、 おうなか二種にしゅがある。 ひとつには横超おうちょうふたつにはおうしゅつである。 おうしゅつとは、 正行しょうぎょうぞうぎょう定善じょうぜんさんぜんおさめて往生おうじょうねがう、 他力たりきなか自力じりき菩提ぼだいしんである。 横超おうちょうとは、 如来にょらい本願力ほんがんりき回向えこうによる信心しんじんである。 これが願作がんさ仏心ぶつしん、 すなわちほとけになろうとねがこころである。 この願作がんさ仏心ぶつしんは、 すなわち他力たりき大菩提だいぼだいしんである。 これを横超おうちょう金剛こんごうしんというのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.223-224 より)

なお、「菩提心釈」の引証いんしょう(※1)でも引かれているが、ここで親鸞が書く「願作仏心」は、曇鸞どんらんの『往生論註おうじょうろんちゅう』にみられる語である。親鸞はこれを『けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)に引用している。

この無上むじょう菩提ぼだいしんはすなはちこれ願作がんさ仏心ぶつしんなり。願作がんさ仏心ぶつしんはすなはちこれ衆生しゅじょうしんなり。衆生しゅじょうしんは、すなはちこれ衆生しゅじょう摂取せっしゅして有仏うぶつ国土こくどしょうぜしむるしんなり。このゆゑにかの安楽あんらく浄土じょうどしょうぜんとがんずるものは、かならず無上むじょう菩提ぼだいしんほつするなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.246-247より)

【現代語訳】
この無上むじょう菩提ぼだいしんは、 願作がんさ仏心ぶつしんすなわちほとけになろうとねがこころである。 この願作がんさ仏心ぶつしんは、 そのまま衆生しゅじょうしんである。 衆生しゅじょうしんとは、 衆生しゅじょうおさって、 阿弥陀仏あみだぶつ浄土じょうどうまれさせるこころである。 このようなわけであるから、 浄土じょうどうまれようとねがひとは、 かならずこの無上むじょう菩提ぼだいしんをおこさなければならない。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.225 より)

つまり親鸞は、横超とは如来の本願力ほんがんりきすなわち法蔵ほうぞう菩薩ぼさつが衆生をすくおうと誓った「度衆生心」が回向された信楽の一心であり、それは「願作仏心」(仏になろうと願う心)になるとした。したがって、その願作仏心とは他力の菩提心であり、それが「横超の金剛心」であるとした。また親鸞は、曇鸞の「願作仏心」を自利じり、「度衆生心」(衆生をすくいたいと願う心)を利他りたとし、横超の金剛心は自利利他円満えんまんだい菩提心である、ととらえていた。

「菩提心釈」後半

おうじゅ菩提ぼだいしん、そのことばひとつにしてそのこころことなりといへども、にゅうしん正要しょうようとす、真心しんしん根本こんぽんとす、じゃぞうしゃくとす、じょうしつとするなり。欣求浄刹ごんぐじょうせつ道俗どうぞくふかしん不具足ふぐそく金言きんげん了知りょうちし、ながもん不具足ふぐそく邪心じゃしんはなるべきなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.246より)

【現代語訳】
 他力たりき菩提ぼだいしん自力じりき菩提ぼだいしんも、 菩提ぼだいしんという言葉ことばひとつであって、 意味いみことなるといっても、 どちらも真実しんじつはいることをただしいこととし、 またかなめとし、 まことのこころ根本こんぽんとする。 よこしまで不純ふじゅんなことをあやまりとし、 うたがいをあやまちとするのである。 そこで、 浄土じょうど往生おうじょうねが出家しゅっけのものも在家ざいけのものも、 しんには完全かんぜんしん完全かんぜんでないしんとがあるという釈尊しゃくそんおおせの意味いみふかり、 如来にょらいおしえを十分じゅうぶんけることのないよこしまなこころ永久えいきゅうはなれなければならない。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.224 より)

後半では、自力でも他力でも菩提心という言葉はひとつであって、その内容は違っているが、どちらも真実をもとめることをかなめとし、まことの心を根本とし、真実を見失うような邪心や疑心を誤りやあやまちとすることに変わりはないとする。そして、出家在家に関わらず浄土への往生を願うものは、しん不具ふぐそくの釈尊の言葉を深く知り、もん不具足のよこしまな心からは離れなければならないといましめて、「菩提心釈」は終わる。

ここに書かれている「信不具足」と「聞不具足」という言葉は、ともに『涅槃経ねはんぎょう』に説かれている言葉である。信不具足とは、完全な信心ではないことを意味し、ただ教えを聞くのみでそのいわれをおもんぱかることのない信心、もしくはさとりへの道を信じるのみで、さとりを得た人がいるとは信じていないことである。聞不具足とは、仏の教えの半分を聞いて信じているが、全体を聞いていないこと、もしくは名利や勝他(他人に勝つこと)のために仏の教えを利用することをいう。浄土真宗本願寺派の梯實圓かけはしじつえんは、この聞信不具足の引用を

これによって親鸞聖人は、『ざいじゃりん』などが加えている『選択集せんじゃくしゅう』批判は、浄土門という仏教のあることに気づかない一面的な仏教観に基づくものであることを指摘して、むしろ明恵上人をたしなめられているように見受けられます。

(『聖典セミナー教行信証 信の巻』P.298)

とし、その背景には明恵(仏教知識「高弁(明恵)」を参照)への批判があると指摘している。

語註

※1 引証
きょう」「りつ」「ろん」や高僧こうそうらの註釈書ちゅうしゃくしょなどの古い文献ぶんけんを証拠として引用すること。

参考文献

[1] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[2] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2009年)
[7] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)

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