門徒は般若心経を唱えてはいけないの?

【もんとははんにゃしんぎょうをとなえてはいけないの】

ご門徒さんのお仏壇にお参りをさせて頂くと、『般若心経はんにゃしんぎょう』の経本きょうぼんが置かれていることがあります。また、「写経しゃきょうをしてきました」と言われて持ってこられるお経も、ほとんどが『般若心経』です。それほど、この国では『般若心経』がポピュラーなお経となっているのでしょう。しかし、これをお読みの皆さんは「浄土真宗では『般若心経』をとなえない(読経どきょうしない)」ということを聞いたことはありませんか? 試しに、パソコンの検索で「浄土真宗」と検索してみると、二番目に「浄土真宗 般若心経」という言葉が出てきます。このコラムにも、そうやってたどり着かれたかたもおられるかも知れませんね。ありがとうございます。少しの間、おつきあい下さい。

さて、浄土真宗の法要では『般若心経』が唱えられることは、通常ありません(私も『般若心経』は唱えたことはありません)。ただ、それは「『般若心経』は唱えてはいけない」という規定があるわけではありません。もちろん、「仏教のお経」としての『般若心経』を勉強すること(読むこと)を禁止されているわけでもありません。簡単に言ってしまえば、私たち門徒は「『般若心経』を唱える必要がない」ということです。いや、「『般若心経』を唱える必要がない身と知らされていく」人が門徒である、と言った方が正確かもしれません。それは『般若心経』に説かれている内容が、私たち門徒にとっては必ずしも「必要」なものではない、ということです。

『般若心経』の中の最も有名な言葉は「色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき」でしょうか。この言葉に代表されるように『般若心経』は「空」(一切のものには実体がない)という仏教の教えを説くお経です。その「空」という真理しんりさとり)にいたるまでの方法を、「摩訶まか般若はんにゃ」(偉大なる真実の智慧ちえ)と「みっ」(悟りにいたるまでにしゅすべきさまざまな修行しゅぎょう)で解説していくお経とも言えるでしょう。だからこそ、『般若心経』の正式名称は『般若はんにゃみっ心経しんぎょう』となっているのです。つまり、自分の力でさまざまな修行をして、偉大なる智慧を獲得して悟りにいたる「自力じりきの教え」を説くお経ということになります。

では、浄土真宗の教えはどうでしょうか。私たち浄土真宗の宗祖しゅうそである親鸞しんらん聖人しょうにんは、『たんしょう』で「いづれのぎょうもおよびがたきなれば」とご自身を語っておられます。どのような修行も修めることのできない「私」であると、親鸞聖人は二十年以上に及ぶ比叡山ひえいざんでの生活の中で気づかされたのでしょう。だからこそ、さまざまな修行をおさめることも偉大な智慧を獲得することもできない私たちが仏と成るには、阿弥陀如来の本願にまかせ、ただ念仏ひとつですくわれていく道しかない、という「他力の教え」を私たちに説いて下さいました。

つまり、『般若心経』に説かれているような「自力の教え」では、なかなかすくわれない「私」であることを、お念仏を通じて「この身」に知らされていく。その気づきこそが、私たちの浄土へのあゆみの始まりなのです。

もちろん、『般若心経』と「お念仏」のどちらがすぐれているのか、ということではありません。お念仏一つですくわれていく教えの私たちには『般若心経』は必要がない、というだけの話です。だからといって、唱えてはいけないというものでもありません。いま、朝晩、お仏壇に向かって『般若心経』を唱えているご門徒さんにも、『般若心経』を一字一句丁寧に書き写しているご門徒さんにも、弥陀の本願はいたり届いているのですから。

いまでもこのような疑問(「浄土真宗では『般若心経』を唱えてはいけないの?」)が、インターネットで検索され続けているのは、ご門徒さんたちに対して、「あぁ、本当はこんなことは必要ないんだ。でも、やらずにおられないこの私こそが、阿弥陀さんにすくってもらっているんだなぁ」と思っていただけるように、丁寧にお念仏を伝えることなく、ただただ「門徒は『般若心経』を唱えてはいけない」とだけ押し付けてきた私たち僧侶の責任が、一番大きいのかもしれません。

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仏や聖者の教えを文章にまとめたもののこと。 インドで書かれ、中国で漢字へと翻訳された。
親鸞
浄土真宗の宗祖。鎌倉時代の僧侶。浄土宗の宗祖である法然の弟子。