君は往生できるのか?
かんべぇ、「君は往生できるのか?」
「かんべぇ」とは、私と同居する「ミニチュアシュナウザー」で2021年11月27日に7歳を迎えた。「人間ならば49歳」と表現する場合があるが、私はこれを採用しない。あえて言うならば、私は54歳で「ミニチュアシュナウザーならば8歳」である。彼と私は同世代、どちらが先にいのちが尽きるかはわからない。もちろん、年齢だけで決まるものではないが、お互いに年を重ねるごとにいのちが尽きる感覚は差し迫ってくる。
どちらが先かは別として、両者のいのちが尽きることには間違いがない。そのときに、阿弥陀如来の極楽浄土でかんべぇと再会ができるのであろうか?そのためには彼が「極楽浄土に往生」(以下 往生)しなければならない。『仏説阿弥陀経』には、往生したものが倶に同じところに集うことができる「諸上善人 倶会一処」が説かれている。ここでの「上善人」を現世(この世)での「人」と捉えるのであれば、かんべぇとは再会できないことになってしまう・・・。しかし、この「上善人」は前段の「衆生生者 皆是阿鞞跋致(※1)」を指しており、「阿弥陀如来の力によって往生した衆生」で、決して迷いの世界に転落することのない不退転の聖者たちのことである。
では、阿弥陀如来の力により往生できる対象はどうなっているのか?『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来がかつて法蔵菩薩のときに、どのようなものを救いの対象(往生するもの)として誓われたのかが記されている。例えば「第十八願」には、
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 (『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.18より)
信心と念仏という課題は残されるが、広く救いの対象範囲は十方(あらゆる場所)の衆生である。衆生とは、サンスクリット(梵語)で「サットヴァ」であり、原語では「存在すること」「生きもの」「感覚を持つもの」などの意味があり、「さまざまな状態をさまよう生きとし生けるもの」と理解されている。(仏教知識「衆生」参照)つまり、対象範囲には「かんべぇ」が含まれているのである。ところが、「現代語訳」になると、
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。 (『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』 P.29より)
「衆生」が「人々」と訳され、原語での「生きもの」などの該当範囲が狭められている。これでは困る。「かんべぇ」が救いの対象に含まれない。ここまで読まれた皆さんで、うっかりしておられる方もおられるだろうが、「かんべぇ」は「人」ではない。「犬」なのだ。「人々」は言う。犬なんて往生できるはずがないじゃないか。犬には「信心」も「念仏」もないのだからと・・・(じゃー、オマエにはあるのか)。
ここで、「かんべぇ」の生活を一部紹介しておこう。彼は、お仏壇に仏飯を供えるときには必ず「自己決定」のもとに参加をする。その際には『讃仏偈』や『重誓偈』などのお勤めをする。気分がすぐれずに途中退室することもあるが、基本的には毎回参加を生きがいにしている。彼には「信心」を賜わったと実感する能力が欠けているのかもしれないし、「称名念仏」もできない。しかし、阿弥陀如来を中心とする同朋(なかま)であることには違いがない。では、信心と念仏の課題はどのように考えるべきなのか。
浄土真宗の宗祖親鸞は、衆生にはそもそも自らの努力で信心を得ることは不可能であるとする。
…ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.203より)
そして、衆生の信心については、
…この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.204より)
として、阿弥陀如来の力によって「施し与えられた」ものであるとする。そして念仏もまた、自ら励む行ではなく、阿弥陀如来からのはたらきかけであるとする。
明らかに知ることができた。本願の念仏は、凡夫や聖者が自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、行者の側からすれば不回向の行というのである。大乗の聖者も小乗の聖者も、また重い罪の悪人も軽い罪の悪人も、みな同じく、この大いなる宝の海とたとえられる選択本願に帰し、念仏して成仏すべきである。 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.108より)
つまり、信心も念仏も阿弥陀如来により与えられたものであり、ここで衆生の能力は問われない。この「大いなる慈悲」が、「与えられた信心の構造がわからないもの」、「念仏を称えたくとも称えられないもの」を排除するのであろうか?私たちが解釈するときに、「人々」ならば排除はしないが「その他の生きもの」まではわからないというのであれば、「経典」を読む姿勢に問題があるのではないだろうか。「経典」に遺された「衆生」の解釈を留保することは、「経典」そのものの留保を意味する。
各経典の編纂者たちは、仏の救済の対象に「サットヴァ」という言葉を使用して、仏教的世界観を表現した。これを受けた訳経僧(※2)たちは、「サットヴァ」を「六道(※3)」に迷う衆多(数多く)の生死(迷い)を繰り返す生きもの」として、漢訳の際に「人」とは訳さずに「衆生」とした。ここに、インドで醸成された仏教的世界観を損なうことが無いようにとの訳経僧たちの苦心が窺える。これは、すべてのものが救われてほしいとの「願い」であると同時に、諸仏の大いなる慈悲への「讃嘆」(※4)でもある。
では、浄土真宗本願寺派では「かんべぇ」の往生はどのように考えているのであろうか?同派総合研究所所長の丘山願海は「命あるものすべて往生すると考える。『動物だから』というのは、人による『はからい』ではないか」(『文化時報』2021年11月4日付)と指摘する。ただ、これをもって本願寺派の公式見解とは言えず、これからの「はからい」を捨てた議論を期待したい。
さて、ここまで書き進めて気になることがでてきた。私は「かんべぇ」が往生すると信じているが、私は果たして往生できるのか・・・。
私は「衆生」なのか・・・。
お仏壇でかんべぇと一緒にお勤めをしているとき、私の後ろ姿を眺めて、彼は心配しているのかも知れない。
「キミハ、オウジョウデキルノカ?」
「かんべぇ」と浄土での再会を期したい。(ふたりともまだ生きています。)
- ※1 阿鞞跋致
- 原語はサンスクリット(梵語)で「アヴァイヴァルティカ」である。「退かない」という意味で「無退」「不退」「不退転」と訳される。決して迷いの世界に戻ることがない心の状態を指し、将来、仏になることが約束されている。
- ※2 訳経僧
- 仏典を梵語などから漢語に訳出(翻訳)する僧侶
- ※3 六道
-
衆生が生死を繰り返してさまよう、迷いの境界(自らの行為によって受けている境遇)を六つに分けたもの。
①地獄
②餓鬼
③畜生
④阿修羅
⑤人間
⑥天 - ※4 讃嘆
- 仏や菩薩の徳をほめたたえること。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『大正新脩大蔵経 第44巻』(大蔵出版 1990年)
[6] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[7] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[8] 『文化時報(2021年11月4日付)』