如来
梵語「タターガタ」の意訳。音訳では「多陀阿伽多」「多陀阿伽度」などとなる。原語の区切り方は、以下の二種類の可能性が指摘されている。
1. タター・ガタ
直訳すると「そのように(タター)・到達した者(ガタ)」
伝統的に次の三つの解釈がなされる。
- 過去の聖者たちと同様の境地に到達した者、修行完成者
- ありのままに、如実に理解した者
- 真理の世界・真如の世界に到達した者
2. タター・アガタ
直訳すると「そのように(タター)・来至した者(アガタ)」
伝統的に次の二つの解釈がなされる。
- 真理の世界・真如の世界にやってきた者、来至した者
- 真理の世界・真如の世界から、私たちのもとにやって来てくれた者、戻って来てくれた者
漢訳では「タター・アガタ」の 2. の解釈を「(真)如より来生したもの」=「如来」と訳した。「タター・ガタ」と区切った場合は「(真)如に到達した者」=「如去」と訳する。
仏(仏陀、真理をさとったもの)の十種の尊称(仏の十号)のひとつでもある。
仏の十号とは
1. 如来 | |
2. 応供 | 供養を受けるに値する者(阿羅漢) |
3. 等正覚(正遍知) | 平等の真理をさとった者 |
4. 明行足 | 智慧と行とがともに完全な者 |
5. 善逝 | 迷界を出て二度と迷いの世界に還らない者 |
6. 世間解 | 世間・出世間のことをすべて知る者 |
7. 無上士 | 最上最高の者 |
8. 調御丈夫 | 衆生を調伏制御してさとりに導く者 |
9. 天人師 | 神々と人間の師となる者 |
10. 仏 | さとりを開いた者 |
11. 世尊 | 世の中でもっとも尊い者 |
とされる。
上記の分類は『仏説無量寿経』に準じ十一種とした。このように「十号」には尊称の分類や名称、その数には諸説がある。また、総称においても「如来の十号」とされることがある。
親鸞と「如来」
親鸞は「如来」という語句について『顕浄土真実教行証文類』「信巻」と『唯信鈔文意』において、それぞれ次のように書いている。
実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.307より)
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.709-710より)
このように親鸞は、阿弥陀如来は衆生をすくうために姿かたちのない「一如」(真如、真理)より来生し、姿かたちがある法蔵菩薩となってさとりをひらいた「報身」であるとした。
また、『親鸞聖人御消息』「第十二通」では
これは『経』の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.759より)
として、阿弥陀如来から回向された信心を得る人は、外見は凡夫のままであるが、その心は如来(この場合は諸仏を指す)と等しいとした。ただし、「ひとし」(等しい)という言葉は「完全に同一」という意味ではなく、「ほぼ同じ」という意味であるので注意が必要である。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2014年)
[3] 『新・仏教辞典』(中村元 監修、石田瑞麿 他 編集 誠信書房 2000年)
[4] 『シリーズ思想としてのインド仏教 内在する仏 如来蔵』(鈴木隆泰 春秋社 2021年)