別序(顕浄土真実信文類 序)
親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の中で、「序」と呼ばれる文章を三つ書いている。全巻の冒頭に置かれている「総序」、最後の「化身土巻」の末尾に置かれている「後序」、そしてこの信文類(「信巻」)の最初に置かれている文章である。親鸞は、『教行信証』の各巻に序を書いているわけではなく、「信巻」にだけ序を書いた。そのため、「特別な序」という意味で「別序」と呼ばれている。内容としては、真実の信心を明らかにし、誤った考えを指摘したうえで、「信巻」を著した意図を明らかにしている。次に段落ごとに詳しく見ていく。
第一段落
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.209より)
【現代語訳】
さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって解き明かされたのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.155より)
まず、親鸞は他力によって獲得する信楽(= 信心)は、阿弥陀如来が選び取った本願の大慈悲心より起こった(回向された)ものであり、それは釈尊が迷い苦しむ一切衆生を広く哀れんで(矜哀)、巧みな言葉や方法を用いて導いてくださったものであるとして、仏と釈尊を讃仰した。
第二段落
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.209より)
【現代語訳】
ところが、 末法の世の出家のものや在家のもの、 また近頃の各宗の人々の中には、 自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、 西方浄土の往生を願うことをけなし、 また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、 他力の信を誤るものがある。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.155より)
続いて、親鸞は末法の時代(釈尊入滅後1500年以上を経て正しい仏法が失われた時代)には出家や在家の仏教を信じる人々や、親鸞が生きた時代の浄土門以外の「諸師」などが自力のこころにとらわれて他力の教えをけなしたり、他力の信心について誤った考えを持っていることを嘆く。
本願寺派の梯實圓は、「自性唯心(※1)に沈」むものを法然教団を攻撃した貞慶(仏教知識「聖覚」参照)や高弁(仏教知識「高弁(明恵)」参照)を指すとし、「定散の自心に惑」うものを法然門下に発生したさまざまな異議を指すと指摘している(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.21-29)。
第三段落
ここに愚禿釈の親鸞、 諸仏如来の真説に信順して、 論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、 ことに一心の華文を開く。 しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、 人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、 取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.209より)
【現代語訳】
ここに愚禿釈の親鸞は、 仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、 祖師方の示された宗義をひらきみる。 広く三経の輝かしい恩恵を受けて、 とくに、一心をあらわされた『 浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、 最後にそれを証された文を示そう。 心から仏の恩の深いことを思い、 人々のあざけりも恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、 娑婆世界を厭う人々よ、 たとえこれに取捨を加えることがあっても、 真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.156より)
最後の段落で親鸞は、真実の教えに従い、信心を顕すために『浄土論』によってそれを示すとした。そして、書き記した「言葉」はただただ阿弥陀仏の恩が深いことを思いながら記したものであるので、世間の人びとのあざけりの言葉などは恥じる必要がない、と宣言する。なお、この文章は「化身土巻」にも同様に見ることができる。そして最後に、「浄土往生を願い、穢土を厭う本願他力の信心を獲た人々は、「信巻」に引用された文章の取捨選択はしても良いが、決して謗ることはあってはならない」と注意を促し、別序は終わる。
この別序は、「信巻」で中心的に展開される「三一問答」が予告されていることや、高弁や貞慶への反論として「信巻」が書かれていることを表明するなど、「信巻」の内容を端的に要約している文章といって良いだろう。また、親鸞特有の「欣厭の次第(※2)」と呼ばれる思想なども垣間見え、この短文の中にいくつもの親鸞の特徴的な思想を見出すことができる。
- ※1 自性唯心
- 阿弥陀仏の極楽浄土が我が心の外には無いとする説。つまり修行をすることによって本来人間が持っている清浄心を取り戻し、心の内に阿弥陀仏や極楽浄土を観じることができるという自力の教えのこと。
- ※2 欣厭の次第
- 聖道門では世を厭うこと(厭離)を先にして、それによって修行して浄土往生を願うこと(欣求)を後にするという「厭欣の次第」という解釈である。しかし親鸞は、浄土の尊いことを知らされて初めて穢土の醜さに気づくような存在である我々凡夫には、先に浄土往生を願い(欣求)、その後にこの世を厭う(厭離)ことしかできないと考えた。これを「欣厭の次第」という。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『親鸞の教行信証を読み解く―信巻―』(藤場俊基 明石書店 2012年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)