宗教映画を観てみよう① - 映画『釈迦』を観てみた

【しゅうきょうえいがをみてみよう 01 えいがしゃかをみてみた】

皆様、お待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません。「真宗の本棚」サブカル担当のいま幾多きたです。今までクラシック音楽、落語、漫画とさまざまなものをご紹介してまいりましたが、今回ご紹介するのは映画『釈迦しゃか』(大映/1961年/監督・三隈研次)です。

この映画は名前の通り、釈迦(釈尊しゃくそん)の生涯を描いた作品です。日本で初めて70mmフイルムを使用した作品(通常の映画は35mm、現在でもI-Max上映作品などでは70mmが使われる)で、総製作費が当時で7億円という超大作でした。当時のラーメンが一杯30円くらいだったそうなので、今の感覚に直せば150億円くらいの製作費でしょうか。高度経済成長時代の日本を代表するような作品となるはずでした。

まず驚くのは市川雷蔵、勝新太郎、杉村春子、中村雁治郎といった当時の映画界、演劇界、歌舞伎界のスターを集めた配役の多彩さです。しかも、全員「いい顔」をしています。でも、ちょっとお待ちください。この映画、釈尊の生涯を描いているんです。つまり、舞台設定はインドなんです。いくら、「いい顔」の役者をそろえても、日本人がインド人を演じるのは無理があるんじゃないか?と思いませんか。その通りです。めちゃくちゃ無理があります。違和感ありまくりです。でも、そんなことはおかまいなしに、映画はしれっと始まります。

最初のシーンは釈尊の誕生のシーンです。光り輝く生まれたての釈尊(映画にならって以降ストーリー説明においては「釈迦」とし、尊称である「釈尊」は使用いたしません)。誕生と同時に、庭の花々がつぎつぎと咲いていきます。本当に「パカパカ」と音がしそうな勢いで咲いていきます。そして「天上てんじょう天下てんが唯我独尊ゆいがどくそん」(映画ではこう読んでいます)と「お前誰だよ」的な子供の声でたどたどしく読み上げられます。そして、荘厳なタイトルミュージック!ちなみに音楽は「ゴジラ」でおなじみの福部ふくべあきらです。伊福部はこの映画の音楽をもとに交響頌偈こうきょうじゅげ「釈迦」を1989年に作曲しています(コラム『真宗の本棚クラシックアワー第一回』を参照)。どうしたのでしょうか、伊福部先生。この映画になにか不満でもあったのでしょうか。

さて、タイトルミュージックが終わると宮殿のシーンです。いきなり釈迦は成人しています。演じるのは当時の若手俳優、本郷功次郎です。この方、タイトルロール(主役)なんですが、演者紹介では市川雷蔵、勝新太郎に続く三番目です。主役なのに三番目。しかも勝新太郎は、悪役のダイバ・ダッタを演じています。悪役よりも順位が下・・・なんだかこの映画を暗示しているようで、少々不安に思いました。宮殿で釈迦は「シッダ」と呼ばれています。シッダ?釈迦はたしか「シッダルータ」もしくは「シッダッタ」と呼ぶのではないでしょうか。だいたい、家族から呼ばれるなら姓である「シッダルータ」ではなく名である「ゴータマ」ではないでしょうか。誰だよ、「シッダ」って。勝手に略すなよ、なんて思っていると、ふと画面に違和感が。え?いま、釈尊に呼びかけたのお母さんの麻耶まや夫人ぶにんだよね。あれ、麻耶夫人って釈尊を生んで七日後に亡くなったんじゃないの?

お か ん 生 き と る や な い か !!

ここまでで、開始五分です。私は何度も画面に突っ込みを入れ続け、いささか疲れてしまいました。この先もこの調子なのでしょうか。と、すごく不安になりましたが、この原稿のために見続けました。ちなみに上映時間は155分です。 ここからはひとつひとつ突っ込むのはやめましょう。紙数がいくらあっても足りませんから。簡単にストーリーをまとめます。最初にお断りしておきますが、これは映画「釈迦」のストーリーです。私の創作ではありません。登場人物の名前、地名などは映画に即してまとめています。

さて、スパーフ城(どこだよ!)にヤショーダラというとても美しいお姫様がいました、彼女の結婚相手を決めるため、結婚志願者で決闘が行われます。ヤショーダラの気持ちはガン無視です。勝ち上がったのはダイバ・ダッタ。釈迦は争いごとが嫌いなため、当初は参加していませんでした。しかし、決勝戦でさっそうと現れ、ダイバを倒しヤショーダラと結婚します。急に決勝戦に進める釈迦の特別扱いもどうかと思いますが、ダイバはこのことで釈迦を深く恨みます。カピラ城で幸せに暮らしている二人でしたが、釈迦は城外に出たさい、亡くなった人が焼かれる様子を見て、あっさりと出家を決意。あっさりと家族を捨てて修行に入ります。釈迦が帰ってくるのを待つヤショーダラ。ちなみに演じるのはフィリピン人女優のチェリト・ソリスです。日本語はしゃべれないのか、吹き替えです。口と発声が合っていません。わざわざ、ここに外国の女優を持ってくる意味は最後までなぞです。 そのヤショーダラを忘れられないダイバは、ある夜にヤショーダラの侍女を脅かし、釈迦が帰ってきたふりをして彼女の寝室を襲います。手ごめにされ悲嘆にくれたヤショーダラは自死します。そのため、ダイバは釈迦族を追放され、釈迦を逆恨みしながら放浪の旅に出ました。何度も言いますが、これは映画のストーリーです。私の創作ではありません。

そのことを知りながらも釈迦は修行を続行。いよいよ菩提樹の下で瞑想に入ります。そこに悪魔が妨害をしてきます。悪魔はなぜかインドなのにベリーダンスを踊ったり、白塗りで仮面をつけて暗黒あんこく舞踊ぶようを踊りながら矢を射ったりしますが、釈迦は瞑想しながら神通力ではね返し、さとりを開きます。このあと、釈迦の姿は出てきません。後光が差して金色に輝いていたり、影だったりで直接的な描写はありません。映画が開始して一時間、釈迦退場。

あとは仏伝にあるさまざまなエピソードが釈迦の説法を絡めて、続いていきます。中にはアショーカ王の子、クナラ王子のエピソードが釈迦存命中のことになっていたり、アナンが村娘に恋をされるエピソードが、アナンもまんざらではなく両想いになっていたり、さらった子供を食べてしまう鬼子母神きしぼじんのエピソードが、さらってきた子供を高いところから水に投げ込むただの殺人鬼になっていたり、と「その改変必要?」という気分になるものもありますが、いや、なることだらけですが、とにかく物語はクライマックスを迎えます。

最後はアジャセの物語が語られます。ここはさすがに『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』を忠実になぞっていきます・・・途中までは。釈迦の説法によってアジャセは改心し、ダイバを退しりぞけます。それに逆切れしたダイバはアジャセをおう殺害の罪で追放し、マガダ国を乗っ取り王となります。そして、ヒンドゥーの大神殿を建設し、その前で仏教徒を人身御供ひとみごくうにしようとします。ちなみに人身御供にする方法は「象に踏みつぶさせる」という独特な方法です。インドといえば象、という単純な発想なのでしょうか?あまりに象がかわいそうです。しかし、象は仏教徒を踏むことができませんでした。それを見て、「奇跡だ!」とあっさり仏教徒に改宗するマガダ国の人々。追い打ちをかけるように、釈迦の怒りの神通力が発動します。神殿は崩れ、神像は粉々にくだけます。地は裂け、その裂け目にダイバは飲み込まれます。ここまで、と覚悟したダイバ。しかし、裂け目に落ちて苦しむダイバの前に一本の白い糸が・・・それをつかむとなぜか天界に昇天していきます。あぁ、まさかの芥川龍之介『蜘蛛の糸』リスペクト。そして、何年もたち仏教教団が隆盛を極めるなか、釈迦は入滅の時をむかえます。入滅した釈迦は天女に抱えられて、天上に昇天していきます。おしまい。

いかがでしょうか。まぁ、ひとことで言ってしまえばトンデモ映画です。釈尊の一生を描く、という触れ込みの割には史実を全く無視して、都合の良いつぎはぎでできあがった映画、といえるでしょう。しかし、私がいちばん気になったのは仏教という教えへのリスペクトの欠如でした。確かに、映画の中には「人間に差別はない」というセリフは出てくるのですが、それが一本の糸のようにつながっていかず、テーマになりきれていません。だから、とんでもない極悪人として描かれていたダイバが救済されるのも唐突で、なにか取ってつけたような感じでしかありませんでした。もちろん、なに一つ善根ぜんごんを積むことができず、成仏が不可能な者とされるいっ闡提せんだいであっても仏性ぶっしょうはあり、その救済が説かれる経典もあるのですが・・・。まだ、これらのことを「テーマ」とするならば「映画」として成立できたでしょう。しかしながら、巨額の資金とたくさんのエキストラ、スター俳優をかき集めてできあがったのは、「釈迦」に名を借りたとても空疎なつぎはぎだらけのトンデモ映画でした。

この映画は、撮影前にはインドやタイなどで大々的なロケを行う予定でした。しかし、映画の内容を知った各国はロケを拒否。その結果、撮影所に大がかりな舞台装置を組んで撮影されたそうです。そして、完成後、大映は仏教が盛んな国に売り込もうとしましたが、やはり各国(タイやミャンマーなど)から拒否されています。国内では仏教各宗派からの批判も起こっています。それでも、というか、そういったスキャンダルのおかげか、国内上映は大成功だったようで7億円の興行収入を得たそうです。しかし、そんな大ヒット映画でありながらも、今日ではほぼ忘れ去られています。それは映画の内容があまりにも空疎だったからでしょう。お金をかけて、キャンペーンを張って、客寄せのスターをかき集めて宣伝をしても、そのときには成功したように見せかけられるかもしれません。しかし、かんじんの内容がお粗末ならば、それは後世に残り、定着していくことはない。この映画はそんなことを私たちに教えてくれているのかもしれません。

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