「真宗の本棚クラシックアワー」第一回
皆様、こんばんは。真宗の本棚クラシックアワーの時間がやってまいりました。今宵は、仏教をテーマにした日本人作曲家によるオーケストラ曲をご紹介いたします。しばらくのお時間、おつきあい下さい。
山田耕筰
早速、一曲目からご紹介してまいりましょう。記念すべき一曲目にふさわしい曲となりますと、この方のこの曲しかありませんね。日本のクラシック音楽の黎明期の立役者、山田耕筰(1886―1965)による交響詩『曼荼羅の華』(1913)をお聴きください。指揮は尾高忠明、演奏は山田耕筰と縁の深い浄土真宗本願寺派宗門校の相愛大学のオーケストラ「相愛フィルハーモニア」による演奏です。
いかがでしたでしょうか。山田耕筰と言えば、童謡の「赤とんぼ」や「待ちぼうけ」を思い浮かべる方も多いのではないしょうか。しかし、オーケストラ曲ではこのように後期ロマン派の影響を受けた曲を何曲か、作曲しております。題名の『曼荼羅の華』とは、釈尊が説法中に天より降りそそいだ蓮の華のことなのですが、そう思って聴いてみると、静謐で厳かな中にも釈尊の強い意志が感じられる曲なのではないでしょうか。若き日の山田耕筰による、ベルリン留学時代に書かれた一曲でした。
貴志康一
さて、次にご紹介いたします曲は「夭逝の天才作曲家」とも評される貴志康一(1909-1937)による交響曲『仏陀』(1934)です。かなり直球な題名の通り、仏陀(釈尊)の生涯を交響曲の各楽章にあてはめた形式をとっており、各楽章の標題は
- 第1楽章 モルト・ソステヌート-アレグロ 「印度"父"」
- 第2楽章 アンダンテ 「ガンジスのほとり"母"」
- 第3楽章 ヴィヴァーチェ 「釈尊誕生"人類の歓喜"」
- 第4楽章 アダージョ 「摩耶夫人の死」
と、なっております。
実は、この交響曲は後に続く楽章の作曲も構想されており、遺されたメモによりますと、第5楽章「生老病死"青春時代"」、第6楽章「出家を決心す」、第7楽章「成道偈」となっており、釈尊の生誕から仏陀として悟るまでを描く予定でした。
しかし、貴志はこの交響曲をいったん第4楽章までで完成したものとみなし、ベルリン留学中の1934年に、当時の世界最高峰といわれたオーケストラ、「ベルリン・フィルハーモニーオーケストラ」を自費で雇い初演・録音を果たしました。なお、作曲家の祖国である日本での初演は、それに遅れることこと50年、1984年に貴志康一の再評価に奔走した指揮者小松一彦によって、貴志の生まれた大阪の地で演奏されました。
それでは、お聴き下さい。貴志康一作曲による交響曲『仏陀』、日本初演を指揮した小松一彦と東京都交響楽団による演奏です。
ワーグナーの楽劇の始まりを思わせる冒頭部分から、まるでマーラーのような力強い行進曲で動き出す第1楽章、東洋風の旋律がめくるめくオーケストレーションで彩られる第2楽章、デュカスの『魔法使いの弟子』を重々しくしてしまったがためにショスタコーヴィチみたいになってしまった第3楽章、そして後期ロマン派の表現法を研究しつくしたような第4楽章と、さまざまな作曲家の影響がかいま見られますが、全体を通して聴くと、まぎれもなく貴志康一の音楽となっている点がみごとですね。
伊福部昭
それでは、本日最後にご紹介するのは伊福部昭(1914-2006)による交響頌偈『釈迦』(1989)です。一般的に伊福部昭と言えば、『ゴジラ』(1954)をはじめとする数々の特撮映画の映画音楽の作曲家として知られていますが、クラシック音楽の分野では、戦中から原始的なリズムを多用した曲を作った独創的な作曲家であり、また、数多くの作曲家を教えた名教師として知られています。この交響頌偈「釈迦」は、浄土宗東京教区青年会の委嘱により作曲されました。しかし、できあがった曲は、大編成のオーケストラと300名の合掌を要する壮大な管弦楽曲でしたから、浄土宗の青年僧侶も驚いたのではないでしょうか。
伊福部には、戦後間もない1953年に舞踏家石井漠(1886-1952)によって委嘱された『人間釈迦』という、釈尊の誕生から成道までを描いた舞踏音楽があります。この舞台は初演以降300回に渡り全国で上演されました。また、映画会社の大映が1963年に制作した大作映画『釈迦』(釈迦:本郷功次郎 ダイバ・ダッタ:勝新太郎)の音楽を依頼された伊福部は、この舞踏音楽『釈迦』の素材を流用しました。そして、20年余りたった1989年に、その集大成としてこの曲が作曲されました。
曲は3つの楽章に別れていて、以下のような標題が付けられています。
- 第1楽章「カピラバスツの悉達多」
- 第2楽章「ブダガヤの降魔」
- 第3楽章「頌偈」
まずは演奏をお聴き下さい。先ほどと同様、小松一彦の指揮で管弦楽は東京交響楽団、合唱は東京オラトリオ研究会 大正大学音楽部混声合唱団の皆様による初演時の演奏です。
合唱はパーリ語で歌われており、第2楽章の釈尊が悪魔によって誘惑される音楽では、私たちの持つ煩悩の数々が合唱によって釈尊に投げかけられます。第3楽章で高らかに歌われる歌詞は、作曲者によって選ばれた『南伝大蔵経六十五巻大王統史十七章五十六節』より引かれています。スコアの表紙に書かれている作曲者の意訳によると、「諸仏は思議を超えたるものなり。諸仏の法も亦思惟を超えたるものなり。それ故、是等思議・思惟を超えたるものを尊信するの境地は、篤き信仰によりて甫めて得られむ。」という意味のパーリ語が歌われています。また、題名にも使用されている「頌偈」という言葉は、簡単に言えば「仏徳讃嘆のためのうた」という意味です。
さて、今回は戦前・戦中派と言われる日本の作曲家たちの三曲をご紹介いたしました。いうまでもなく、クラシック音楽は西洋音楽とも言われ、明治以降に日本に輸入された音楽です。その「西洋音楽」を使い、日本の仏教を描こうとした先人たちの作品、皆様はどのようにお聴きになられたでしょうか。
最後に
最後に、今日ご紹介した作曲家たちの宗教的な背景をご紹介いたしましょう。
山田耕筰は熱心なクリスチャンの家庭に生まれました。しかし、1917年のアメリカへの演奏旅行の途中に体調を悪くして、ハワイでの静養を余儀なくされました。その静養先が浄土真宗本願寺派のハワイ別院であったために、仏教との縁ができました。山田はその後、何曲かの仏教讃歌を本願寺派のために作曲し、宗門校の相愛学園における音楽教育にも深く携わりました。そして、彼の葬儀は本願寺派の築地別院で執り行われ、法名も授与されています(http://j-soken.jp/files/common/shinpou_151120.pdf)。
貴志康一は、大阪心斎橋で大きなメリヤス問屋を営み、熱心な仏教徒であった両親のもとに生まれました。裕福な家庭で育った貴志は、やがて音楽の道を志し、17歳で通っていた甲南高校を中退し、バイオリニストとしてスイスに留学します。20歳のときには、当時の日本円で6万円もするバイオリンの名器ストラディヴァリウスを購入し、話題となりました(当時の給与所得者の平均年収は738円でしたので、81年分の年収となりますね)。その後も作曲家、指揮者として日本とヨーロッパで活動をしていましたが、1936年に病いに倒れ、翌年には心臓疾患で逝去しました。28歳でした。そのお骨は妙心寺徳雲院(臨済宗妙心寺派)に埋葬されています。
伊福部昭は警察官僚の父親の赴任先である北海道の釧路で生まれました。父親が同じ北海道の音更村の村長となったために、小学生の時に音更村へと移り住みます。そこで、アイヌの人々と交流をもった伊福部は、その文化や生活に多大な影響を受け、後年の作品にまでアイヌのリズムが色濃く反映された作品を書き続けています。また、伊福部家は鳥取県の宇倍神社の神官を十五代にわたって務めてきた家系であり、伊福部自身も父親から神道の教えと老子の儒教的な教えを教わってきたと書いています。彼の宗教観に関しては、彼自身が書いた文章「小異を受容する寛大さ」(『日本の神々と社』 P.38. 1990. 読売新聞社 東京)に詳しいので参照してください。決して、彼の主張のすべてを肯定できるわけではありませんが、彼の中には神道、儒教、アイヌ、仏教といった異なる宗教的な考え方が同居していたことは、その作品を考えるうえでも興味深いことだと思います。
では、お時間が参りました。また、次回の真宗の本棚クラシックアワーでお会いしましょう。