「真宗の本棚クラシックアワー」第二回
皆様、こんばんは。第二回目の真宗の本棚クラシックアワーの時間がやってまいりました。前回の第一回目は明治期から第二次世界大戦の終戦までの時代に活躍した作曲家たちの、仏教にまつわる音楽をご紹介いたしました。正直、まったくなんの反応も無く、私としては心がくじけそうなのですが、めげずに第二回をお送りしたいと思います。
前回のクラシックアワーでは、伊福部昭(1914~2006)をご紹介したところで終わっておりましたね。第二回はその伊福部昭の弟子である、黛敏郎(1929~1997)を特集したいと思います。
さて、黛敏郎といえば、皆様にとっては今も続く「題名のない音楽会」でのダンディかつ軽妙な司会で知られていることかと思います。黛は1964年の番組開始直後から1997年の自身の死の直前まで、この番組の企画と司会を続けました。まさに黛敏郎のライフワークといっても良いでしょう。ジャズや歌謡曲からジョン・ケージなどの現代音楽まで幅広く平等に取り扱ったこの番組は、家族団らんの日曜の朝にいきなりゴリゴリの現代音楽をテレビから鳴り響かせた番組として、幼い私に現代音楽へのトラウマと興味という相反する感情を植え付けてくれました。この番組がなければ、私の音楽の趣味はここまで偏ることもなかったでしょう。
いや、個人的な話で失礼いたしました。黛敏郎の話に戻しましょう。彼の仏教を題材とした作品で有名なものは、「涅槃交響曲」(1958)と「曼荼羅交響曲」(1960)でしょうか。とくに、「涅槃交響曲」は大編成のオーケストラに60~120名の男声合唱を必要とするにもかかわらず、黛の没後も何度となく再演されており、名実ともに彼の代表作となっています。岩城宏之指揮、東京交響楽団と東京混声合唱団による、1998年の黛敏郎追悼演奏会での演奏です。
冒頭のオーケストラの響きは、じっさいの梵鐘の響きを「スペクトル分析」という音響学の解析方法を用いて、オーケストラの各楽器に演奏させています。作曲者本人はこの手法を「カンパノロジー・エフェクト」と呼び、続く「曼荼羅交響曲」やオペラ「金閣寺」でも使用しています。
男声合唱による読経を模した部分で歌われているのは、天台声明です。しかし、黛自身はこの引用した経文の意味は関係なく、響きと旋律で選んだとして、「呪文以外の特別な意味の無い」とスコアに書いています。釈尊が聞いたら卒倒しそうな発言ですが、あんがい、このように「意味ではなく音響」という作曲姿勢が、黛自身の仏教音楽に対する根本的な姿勢だったのかもしれません。
さて、黛敏郎のもう一つの顔といえば、右翼系の活動家としての顔ではないでしょうか。5月3日の憲法記念日には改憲派の集会の代表を務め、新聞にも毎年のように名前が掲載されていました。また、いま話題の「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」の議長を長く勤め、保守系文化人の中でも最右翼に位置し、積極的に政治家たちと運動を展開していきました。
しかし、この黛の政治的活動が、彼自身の本業である作曲家としての活動を狭めていきました。前述の「題名のない音楽会で」では不意打ちのように「海ゆかば」を(太平洋戦争に肯定的な政治意図で)演奏させたり、カンタータ「憲法はなぜ改正されなければならないか」を作曲、演奏させて番組自体がお蔵入りしたりと、さまざまな物議を醸しだしてきました。いわば、右翼系の作曲家として広く認知されていった黛は、しだいに作曲の依頼が減っていきます。
じっさいに、1970年代80年代の黛は、オペラ「金閣寺」を除くと、純音楽といえる作品はほとんどなく、さまざまな団体の委嘱音楽(クラシックの分野では「機会音楽」ともいわれて一段低く見られてきました)で糊口をしのいでいました。その中でも、黛の一番のお客さんは仏教団体でした。
「涅槃交響曲」で声明を使ったのが縁なのでしょうか、天台宗からはカンタータ「般若心経」(1976)を、日蓮宗からはオラトリオ「日蓮」(1983)を委嘱されています。その中でも、とくに関係が深かったのが新宗教の阿含宗でした。
1983年に委嘱された「大佛讃歌」に始まり、主要法要のひとつである「阿含の星祭り」のために書かれた「阿含の星祭り序曲」、カンタータ「仏舎利宝珠尊和讃」、オラトリオ「世界の祈り」など、かなりの数を作曲しています。阿含宗の管長、桐山靖雄は黛と同じ政治思想を持っている人なので、その辺りの人脈が働いたのかもしれません。
しかしながら、これらの曲を聴いてみると、まさに「音響」として聴衆を興奮させる音楽であることは認めるとしても、涅槃交響曲や曼荼羅交響曲、オペラ「金閣寺」といった彼の代表作に比べると、いま一歩、作品としての深みに欠けていることも事実です。思えば、涅槃交響曲でも彼は経文の意味にはまったくといっていいほど、興味を示していませんでした。この70年代80年代に書かれたさまざまな宗教団体への音楽もまた同様に、「その法要にどのような思いが込められているか」ということには、彼にはまったく関心がなかったのかもしれません。そう思いますと、例えば「阿含の星祭り序曲」のような曲は、花火が上がり山伏の格好をした行者がほら貝を吹きながら現れ、最後に桐山靖雄が神通力(ということになっています)で巨大な火柱を上げるという、一連の造られた宗教ショーの中でしか成立しえない曲なのかもしれません。その場にふさわしい音響をつくり上げることに長けた黛の高度な作曲技術は、聴衆の熱狂や興奮を煽り立てることによって、その中心にいる人の「権威性」をまつり上げるという役目にはぴったりだったのでしょう。
黛敏郎は1997年4月10日、満68歳で亡くなります。最後に仕上げた大作は日本神話を題材としたドイツ語によるオペラ「古事記」(1993)でした。彼の墓所は、天台宗でも日蓮宗でも阿含宗でもなく、曹洞宗総持寺の境内の墓地にあります。
さて、彼の没後、22年を経た2019年11月8日、彼の音楽は多くの人々の耳に届くことになります。天皇即位に関する民間の式典「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」(前述の日本会議も主催団体のひとつです)で、代表作である曼荼羅交響曲が流されたのです。しかし、それは「芸術作品としての演奏」ではなく、古事記を題材とした絵画を紹介するときのBGMとして、ほんの一部が切り取られた形でした。この式典の総合演出は、元NHKの演出家・ディレクターである黛りんたろう、黛敏郎の長男です。死してなお、誰かの権威性をまつりあげるための「道具」として息子に利用され、消費された彼の音楽は、作曲家黛敏郎としての本意だったのでしょうか。