宗教映画を観てみよう② - 映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観てみた

【しゅうきょうえいがをみてみよう 02 えいがじーざすくらいすとすーぱーすたーをみてみた】

さて、前回は映画『しゃ』をて、かなりどんよりとした気分になったわけですが、今回はお口直しに「イエス・キリスト」を題材にした映画をご紹介いたしましょう。

映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』(配給 CIC/1973年/監督 ノーマン・ジュイソン)は題名の通り、イエス・キリストを主人公にしたミュージカル映画です。「ジーザス・クライスト」は「イエス・キリスト」を英語読みした発音ですね。これは、同名のロック・オペラ(ミュージカル)を映画化した作品です。1969年に作詞家のティム・ライスが作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェバーと共同で、イエス・キリストの最後の七日間をテーマにしたコンセプト・アルバムを作成しました。何度かのコンサート形式でのライブを経たあと、1971年ブロードウェイで正式に舞台版として初演されます。日本では劇団四季によって1973年に舞台初演がなされ、約50年間に渡って同劇団の重要なレパートリーとして、再演が重ねられてきました。

映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、その舞台版を映画化したものです。ロケは、イエス(以下、映画と同様にジーザスとする)が実際に活動したイスラエルで行われました。海外でのロケを断られた映画『釈迦』とはえらい違いですね。映画の内容はというと、舞台をかなり忠実になぞっていきます。ジーザスの最後の七日間を描く、ということで、まずエルサレムへの入城にゅうじょう前夜から物語は始まります。ジーザスを中心とした集団は、当時のイスラエルを実効支配していたローマ帝国からの迫害を受けながらも、神との約束の地エルサレム近郊までやってきました。ジーザスはそこで群衆から「これから何が起こるのか?」とめ寄られます。「思い悩むな、すべて神のみこころのままだ」と答えるジーザス。そこにマグダラのマリアがジーザスをづかい、香油で彼の身をきよめます。それを冷ややかに見ていたイスカリオテのユダがマリアに向かって、「その高価な香油で何人の貧しい人々を救えるのか」と詰問きつもんします。それにキレるジーザス。「この中でいっさい罪をつくったことのない人だけが彼女を非難できる」と言い放ちます。そこから、ユダとジーザスの激しい口論が始まり、最後にはジーザスが「私が去ったあと、お前たちは道を誤るだろう」と不吉な予言をのこします。あ、お伝えするのを忘れていましたが、この作品は「ロック・オペラ」というだけあって、セリフは一切なく全編音楽と歌のみで構成されている「グランド・オペラ」形式です。ですから、主役のジーザスとユダにはオペラ歌手並みのテクニックと体力が必要とされます。

次の場面は、ローマ側の会議の場面となります。熱狂する群衆と、その中心にいるジーザスを危険視する彼らは、なんとかジーザスを捕えようと策略を巡らせます。そのようなことを知らない群衆たちは、ジーザスに「ローマの圧政と闘って、私たちのために死んでくれ」と熱狂の中で歌い上げます。つまり、ジーザスはローマからも自分の身内からも「死」を願われている、というわけですね。そして、ジーザスたちはとうとう聖地エルサレムへの入城をたしました。しかし、聖地エルサレムはもはや「聖地」ではありませんでした。土産みやげもの屋が立ち並び、観光客がひしめき。それを目当てにした人々の欲望を刺激するような店が集まる俗っぽい街となっていたのです。それを見て、またもやキレるジーザス。この作品のジーザスはかなりキレる場面が多いので、キレ芸が達者かどうかでジーザス役者としての評価が分かれる、と個人的に思っています。ジーザスは「ここは私の祈りの場だ、出て行け!」と店舗てんぽを破壊します。あぁ、これではローマの思うつぼじゃないか、と思っていると、商人たちが立ち去った後の街には病人と貧者だけが取り残されていました。彼らはジーザスを見つけると、奇跡で「病気を治して下さい」「お金をめぐんでください」と言い寄ってきます。最初は、ひとりひとり対応しようとしていたのですが、あまりの数の多さに対応しきれなくなり、最後にはまたもやキレて「自分で治せ」と叫んでしまいます。そうすると、なぜかマリアが出てきて、このミュージカルいちのヒットナンバー「私はジーザスがわからない」を歌い上げます。安心してください、マリア。こんなにキレ散らかすジーザスがわからないのは、あなただけじゃありません。さて、ジーザスと路線対立をしていたユダですが、とうとうローマの司令官に会いに行きます。そこで銀貨30枚を手渡され、ジーザスがひとりになる時間を答えるように尋問じんもんされるユダ。最初はこばんでいたのですが、「この金は汚い金じゃない。この金で貧しい人たちを救え」と言葉たくみにユダを丸め込もうとします。すると、何かにとりつかれたように金を受け取り、ジーザスが一人になる時間と場所を答えてしまいます。答えたあと、天から「よくやったぞ、ユダ」という声がふりそそいできました。そう、いよいよジーザスの最後の晩餐が始まります。でも、さすがにこのあとはネタバレになるので、やめておきましょう。気になる方は、ぜひ本編をご覧ください。アマゾン・プライムなどでレンタルすることもできます。そのさい、できれば1973年の映画版ではなく、いくつかある舞台版を観て頂けないでしょうか。映画版も舞台には忠実なのですが、舞台版では今日的な価値観にもとづいたさまざまな演出が楽しめます。中には、時代設定を現代に置き換えた演出もあるので、「演劇」ならではの楽しみを体感できると思います。

じつは映画『釈迦』と同様に、この作品も初演当時から批判が巻き起こっています。キリスト教の諸宗派はこの作品を「神の子であるジーザスから神性が感じられない」「裏切り者のユダを過剰に擁護ようごしている」と批判をしました。確かに、ことあるごとにキレ散らかし、ときには神にさえ恨みつらみを吐き出すこの作品のジーザスには「神性しんせい」はあまり感じられません。銀貨30枚でジーザスを売ったとされるユダは、この作品では冷静な現実主義者で、感情的なジーザスとの路線対立のすえに裏切ったということになっています(そして、その「裏切り」さえじつは神に選ばれた行為だということも暗示されています)。敬虔なクリスチャンや神学者たちには、許容できない改変だったのでしょう。しかし、この作品の作詞をしたティム・ライスは「人間としてのジーザスを描きたかった」と話しています。私は、ここにティム・ライスのジーザスへのリスペクトを感じます。神の子としてのジーザスではなく、あくまで我々と同じく悩み苦しみ生きぬいたジーザス。彼が描きたかったジーザスは、そのようなジーザスだったのではないでしょうか。

この作品は初演から50年以上に渡って、愛され続けています。そして、今でも世界中のどこかで上演され続けています。もし、この作品のジーザスが完璧な「神の子」として描かれていたなら、はたしてこのように愛され上演され続ける作品となっていたのでしょうか。映画『釈迦』のように、うずもれた作品となっていたのではないでしょうか。「ジーザスも私たちと変わることのないひとりの人間だ」と高らかに宣言したところにこそ、この作品の真価があると、私は思っています。

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