焼香の作法、合掌礼拝の作法
仏教の要素のうち、触れる機会が多いものに焼香や合掌礼拝といった作法があります。この作法について私見を交えながら細かいお話をしてみようと思います。「焼香」「合掌 礼拝」についてはそれぞれ仏教知識にも掲載しておりますので、そちらも適宜ご覧下さい。
焼香の作法
まず焼香の作法についておさらいします。まずはこの画像をご覧下さい。
仏教知識「焼香」と重複するところもありますが、これに少し補足していきます。
焼香卓(焼香台)
画像の作法は焼香卓が低く、座る必要がある場合のものです。高い焼香台を使うときは立ったまま焼香しますから、当然ながら②の着座と⑧の起立は行いません。
揖拝(※1)
揖拝は焼香に限らず、本尊の前に立ったり本尊の前を横切ったりするときに行う作法です。焼香は追善供養ではなく阿弥陀仏を敬い礼拝するためのものですから、故人ではなく本尊の阿弥陀仏に向かって行います。そのため焼香台の向こうには必ず本尊があるはずです。本尊の前に立つので、その時に揖拝をします。
- ※1 揖拝
- 起立の姿勢で合掌をせずに上体を約15°前方に傾けてから、おもむろに元の姿勢にもどすことをいう。揖拝を1回することを一揖という。
香盒の蓋の開け閉め
細かいことですが、香盒の蓋に関しては複数の人が連続して焼香するときにはいちいち開け閉めしません。最初の人が開け、最後の人が閉めれば大丈夫です。
回し焼香
焼香台を使わず香炉をお盆に乗せ、一人一人が自席から動かずに焼香し、その後次の人にお盆を回していくやり方もあります。これを俗に「回し焼香」と呼んでいます。香炉と香盒がセットになったものを使う際はお盆を使わないこともあります。
このやり方は『浄土真宗本願寺派 法式規範』で規定されているわけではありませんが、ご自宅での法事でよく用いられます。先の画像でいうと③から⑦を行います。揖拝は先に書いた通り「本尊の前に立ったり本尊の前を横切るときに行う作法」なので、回し焼香の場合は必要ないと思います。もちろん着座と起立は必要ありません。
合掌礼拝の作法
次に合掌礼拝の作法についてですが、先の画像でいうと⑥と⑦が合掌、礼拝にあたります。要するに焼香の作法の中に合掌礼拝が組み込まれています。細かい作法については仏教知識「合掌 礼拝」もご参照ください。
以上をまとめますと焼香の作法は
- お香を入れてから、合掌礼拝する
- 焼香台があるときは最初と最後に揖拝する
- 焼香台の高さによって着座・起立が間に入る
となります。そのほか、「お香は1回しか入れない、押しいただかない」とだけ覚えていただければ大丈夫です。
よくみられる誤り
法事などでご門徒の皆様が焼香されるところを見ていますと、他の宗派の作法と混同されているのか、正しい作法で焼香されない方がかなりおられます。ここでは代表的な間違い方を紹介します。なお、先に書いておきますが間違ってはいけないということではありません。大事なのは香を供える気持ちです。
焼香の前に合掌したり、(揖拝ではなく)礼拝をしてしまう
最初に焼香卓の前で頭を下げるのは揖拝です。礼拝ではありません。合掌をする必要もありません。腕は身体の横で大丈夫です。
なお、他の参拝者に向かって頭を下げる必要はありません。してはいけないわけではありませんが、少なくともそれは焼香の作法には含まれません。
香を何回も香炉に入れる、香を押しいただく
「お香は1回しか入れない、押しいただかない」です。
合掌した手の指が離れている
合掌の際には指を揃えます。
合掌しながら目を閉じている
本尊の阿弥陀仏を見ながら合掌します。
無言でいる
「称名」(阿弥陀仏の名を称える)というぐらいですから、「南無阿弥陀仏」と声に出して称えます。称え方は「なまんだぶつ」「なんまんだーぶ」などがあり、特に決まりはありません。回数も決まっておりません。しかし声に出して称えるのはやはり恥ずかしいのでしょう、ほとんどの方は無言のままです。
合掌してすぐに頭を下げてしまう
これも非常によくあります。お念仏を称えて、終わりの方で頭を下げ礼拝するのが正しい作法です。
「目を閉じ、無言で、頭を下げた状態をしばらく続ける」というのは他宗教におけるお祈りのイメージから来ているのかもしれません。浄土真宗本願寺派では「目を開けて阿弥陀仏を見ながら、声に出して念仏を称え、しばらく称えた後に頭を下げる」のが合掌礼拝です。私としては「合掌礼拝」ではなく「合掌、称名、礼拝」と呼んだ方が正確なのではないかといつも思っています。
正しく知ってもらいたい
先に「作法を間違えても構わない」と書きましたが、どうせなら正しい作法で行ってほしいという思いもあります。作法を間違えられたときは「せっかく説明したのになあ」と少し残念な気持ちになります。「他力本願」などもそうですが「本当はこういう意味なのに皆が勘違いしている、もっと正しいことを知ってもらいたい」という気持ちが私にはあります。まさにこの「真宗の本棚」自体がそうですね。
しかし知識をいっぱい知っているからといって偉いわけではありません。知識を無理に押しつけても誰も幸せになりません。「私が教えてあげないといけない」という気持ちは、行きすぎるとただの迷惑です。実際、間違った作法を見たときには「一度で作法を覚えるのは難しいだろう」とか「前の人が間違っていたらそのままそれを真似する方が無難だろう」とか「そもそも作法が正しいことはそれほど重要ではない」ということも考えています。
人に押しつけることなく、しかし学ぶこと・発信することはコツコツと続けていきたいものです。