式中初七日

【しきちゅうしょなぬか】

みなさんは「式中初七日」という言葉を聞いたことがありますか?私は十年ほど前、関東の門徒さんのお葬儀そうぎに寄せてもらったときに、はじめて聞きました。その時の葬儀社の担当者が、もうごく当たり前のように「式中初七日です。」と言ってこられたので、その頃にはすでに関東でもポピュラーな言葉だったのでしょう。

ちなみにその時の会話を再現すると

葬儀社(以下、「葬」)「式中初七日ですので、葬儀が終わったあとはどうなさいますか?」
私「おこつがかえってくるまでずっと(遺族いぞくと)ご一緒いたします。」
葬「え?」
私「え?」
葬「斎場さいじょうまで来られるのですか?」
私「しゅうこつ(お骨を骨壺に収めること)までご一緒しますよ。」
葬「では収骨のあとに、そのまま駅までお送りします。」
私「いや、会館にかえってかんこつと初七日のおつとめをします。」
葬「・・・初七日法要は式中にお済ませですが?」
私「式中??どの式中ですか?」
葬「お葬式の中で、です。」
私「ごめん、ちょっと意味わかんない」

多少の脚色きゃくしょくはありますが、おおむねこのような会話でした。

ここまで読んでいただいた方にはもう、おわかりでしょう。「式中初七日」とは、お葬式の最中(本願寺派では「葬場そうじょう勤行ごんぎょう」といいます)に、本来ならまったく法要の時期が異なる「初七日法要」をいっしょにお勤めすることです。葬儀のお勤めに「初七日法要」をり込むので、「繰り込み初七日」と呼ぶ葬儀社もあります。この式中初七日が、いま筆者の住む関西地区でも目に見えて増えてきています(ちなみに、関東での式中初七日の一件は遺族からの提案ではなく葬儀社からの提案だった、というオチがついています)。

なお、本願寺派における一連の葬儀の法要については、このサイト内にある「小冊子『浄土真宗の葬儀のながれ』」の項を、初七日法要などの中陰ちゅういん法要については同じく「満中陰」の項をご参照ください。これらを読んでみると、「初七日法要は故人がお骨となってから勤める」ということが、よく分かっていただけると思います。

では、なぜお骨になる前に「初七日法要」を勤めるのでしょう。ある葬儀社のホームページには式中初七日について「最大のメリットは、火葬・収骨を終えた後(に初七日法要を行う場合)と比べると、1~2時間ほど時間短縮が可能です。」と書いてありました(下線部分は筆者が補足)。「メリット」という言葉が葬儀の場にふさわしいかどうかはさておき、どうやら「時間短縮」のために、この奇妙な「式中初七日」という新しい方式が定着ていちゃくしていったようです(ちなみに、先のホームページには時間短縮以外の「メリット」はどこにも書いていませんでした)。

なるほど、遺族にとっては拘束こうそく時間が短縮され身体的な負担は(1~2時間分ぐらいでしょうが)軽減されるかもしれません。葬儀社にとっては、会場を使用する時間が短縮されることによって回転率が上がるでしょう。では、僧侶の場合は?

まず、拘束時間が短縮されます。上の図を見ていただくとおわかりのように、本願寺派で定められている諸法要のうち、「収骨勤行」「還骨勤行」、そして「初七日法要」を勤める必要が無くなります。つまり、斎場まで行って火葬の前でお勤めする「火屋ひや勤行」で、僧侶はおやく御免ごめんとなります(その火屋勤行さえも省略する僧侶もいるそうです)。遺体が遺骨となる時間を待つ必要もありません。そう考えると、じつは「式中初七日」は、正確に名前をつけるのであれば「式中収骨勤行・還骨勤行、ならびに初七日法要」と言わなければなりません。まだ遺体が荼毘だびされる前に、収骨と還骨の勤行を行うことに何の宗教的な意味があるのか、とても疑問に思います。

また、多くの僧侶は式中初七日を勤める場合でも、初七日法要のお布施ふせはきっちりいただいているようです。金銭的な「メリット」も式中初七日では担保たんぽされます。そして、「式中」という言葉を使いながらも、じっさいの読経どきょう時間はさほど変わりません。式中初七日を依頼したからと言って、葬儀の時間を長くとってくれる葬儀社はほぼないというのが現状です。拘束時間は短くなる、お布施は従来通り、読経時間は結果的に短縮される・・・「メリット」という言葉を使うのであれば、僧侶にこそたくさんの「メリット」があります。そして、「式中初七日」がこれほどまでに定着してしまった背景には、葬儀における各法要の宗教的な意味よりも、「メリット」を追求し続けてきた私たち僧侶の姿があると、私は考えています。

私の所属する浄土真宗本願寺派大阪教区住吉すみよしでは、そのような僧侶の姿勢を反省し、先に紹介した「小冊子『浄土真宗の葬儀のながれ』」を作成いたしました。その中のガイドラインにおいて、「尚、浄土真宗には葬儀中に初七日・中陰を執り行うという作法は存在しない事を門信徒に確認する。」という文章として、式中初七日についても触れており、門徒のみなさま、葬儀社とともにこの問題について取り組んで行こうと考えています。

五年ほど前に、関東の僧侶から「式中満中陰を依頼された」という話を聞いて驚いたことがあります。いきつく先は「式中一周いっしゅう」「式中三回忌」、もしかしたら「式中五十回忌」までありうるかもしれないね、とそのときは笑っていましたが、もはや現状では笑い話ではすまなくなっているのかもしれません。とくに、このコラムを書いているいま(2021年4月16日)、関西では新型コロナウィルス感染症の第四波が到来しているのではないか、と騒然そうぜんとなっています。そんな中、この「式中初七日」や通夜つや勤行を省略する「一日葬いちにちそう」などが、「みつける」「会合を減らす」という観点から、提案されることが多くなってきました。ここで「世間のご時世じせいだからしょうがない」と受け入れてしまうのか、「いや、もっと何か違う方法で、従来通りのお勤めやごほうを伝えることができるはずだ」とあらがうのか、いまこそ私たち僧侶の姿勢が厳しく問われているように、私には思えます。

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