『教行信証』「信巻」を終えて
私が仏教知識のコーナーでチマチマと書き続けてきた『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)「信巻」の解説が、いつの間にか終わっていたらしい。いつのまにか、というのは書いていた私自身が終わっていたのを把握していなかったからだ。先月、このホームページの同人諸氏に送ったメールに私はこう書いている。「続いて『大信釈』に入ります」と。じっさい、「大信釈」の御自釈と現代語訳を書き写し、原稿の準備を始めていたのだが、その最中に「あれ?これ、前も書き写してないか?」と悪い予感がよぎったのだ。あわてて、パソコンのデータをさかのぼると、一年半前の仏教知識「大信釈 (1)(2)」というフォルダーが出てきた。どうしてなのかはわからないが、「大信釈」の解説を既に書いていたことが、頭からすっぽりと抜け落ちていたのである(ちなみに、このコラムの公開時点ではまだ「信巻」の原稿は公開されていない部分がある。順次公開されていく予定なので、またよろしくお願いします)。
しかしながら、まぁ、そうなるのも無理はない気はする。というのは、私が書いたこの「信巻」の解説は、その序文にあたる「別序」から順番に書いていったものではないからである。もとは、「『浄土真宗辞典』の三一問答の解説、簡単すぎてよくわからん」と、軽い気持ちで始めた原稿がきっかけであって、「信巻」すべての解説を書こうなどと大それたことは、これっぽちも思っていなかったのである。しかし、「三一問答」の解説を書き上げてみると、「これは『信巻』の序文から読み直した方がいいんじゃね」とこれまた軽い気持ちで、「三一問答」につながる「別序」と「大信釈」の原稿を書いていたのだった、すっかり忘れていたけど。つまり、最初に「三一問答」を仕上げ、そこにつながる「別序」「大信釈」の解説を書き、最後に「三一問答」からつながる「信心追釈」や「逆謗摂取」を完成させた、という複雑な流れをたどっているのである。これでは、忘れていても仕方がない(いいわけである)。
そもそも、最初の「三一問答」の解説にかなりてこずった。手元のデータによると一番最初に書いた「三心」が二〇二二年三月となっており、最後の原稿まで丸二年かけたことになる。まぁ、書けなくなるとコラムに逃げたりしていたのだが、それでも二年である。二年の間に、解説の書きぶりも変わっていった。書き始めた当初は、あれもこれもと欲張って参考文献を引いたりしていたが、「菩提心釈」あたりからは主に参照する本を一つ(ネタ本、ともいう)に絞り、あとの文献はネタ本の納得できない部分や読みにくい部分が出てきたときに適宜参照するというスタイルになっていった。これは何も、ほかの参考文献を読み込むのが面倒だったわけではない。断じてない。最初の「あれもこれも」では、けっきょく文章が煩雑となり、かえって親鸞が何を書きたかったのかが、なかなか伝えることができなかったからである。決してほかの文献を読むのが面倒くさくなったわけではない(しつこい)。そんなこんなで、「信巻」の解説を終えるまでには三年半もの時間がかかってしまった。
もちろん、ネタ本をただ全面的になぞったわけではない。後代の真宗学者や門主が付け加えたであろう解釈はなるべく排除して、親鸞の原文(と言っても、出版された書き下し文であるが)に沿って解説していくということに気をつけ、なるべく「私が感じた親鸞」に忠実に書いたつもりである。ちなみに、ネタ本として主に使用したのは『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2008年)であるが、そこに大谷派の藤場俊基氏の『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)を参照する形を取った。この二冊は、書きぶりが全く違っており、時には梯氏の提示する本願寺派の公式見解ともいうべき親鸞像に対して、藤場氏個人の思索を深めていったかのような「藤場親鸞」は、スリリングに対立する場面もあった。
そして、この三年半のあいだ、私はおのずと親鸞の原文に何度も触れることにもなった。そうなると、いやがおうにも気づくのである、親鸞のねちっこさに。例えば、「信巻」の字訓釈や転釈を読んでみると、親鸞は一つの言葉を何度も何度も執拗に置き換えているのがわかる。もう、これでもか、というほどに置き換える。第一問答の答えなどは、ほとんどが置き換えである。あまりのねちっこさに、「字訓釈」だけで表を作って整理しなければならないくらいに、ねちっこい。ただ、そのねちっこさには、何か静かな怒りのようなものが感じられる。執念のように持続してきた深い怒りが。親鸞は『教行信証』の「後序」において、師法然を流罪にした後鳥羽天皇らを名指しで痛烈に批判した。それも「諱」を併記するねちっこさである。そして、その怒りの矛先は、流罪にしたものだけではなく、法然を批判し弾圧のきっかけを作った興福寺奏状(仏教知識「聖覚」※6参照)や高弁の『摧邪輪』(仏教知識「高弁(明恵)」参照)にも向けられている。何年も何十年も、親鸞は怒り続けていた。そしてその怒りは、自身が流罪にされたことよりも、法然の教えが謗られ法然が流罪にされたことへの怒りなのだ、と私は気づいた。だからこそ、親鸞は何度も何度も執拗に同じことを繰り返し書かなければならなかった。ねちっこく膨大な経典を引用して、法然の教えの正しさを取り戻さなければならなかった。
とくに「三一問答」の部分は高弁が『摧邪輪』で指摘した「菩提心を棄てる過失」に対する反論として書かれている。「他力回向の信心には菩提心が具わっている」。このことを証明するために、あれだけ執拗に親鸞は論を展開していったのだ。確かにねちっこい。しかし、それは頭の下がるねちっこさである。
『信巻』を書き終えたあと、私はどこへ向かえば良いのだろうか。まだまだ、親鸞の文章と向き合っていきたい、という思いはある。それはあるのだが、少しお休みしたいという思いも正直ある。さて、ここで唐突に話は変わるが、私の父が昨年往生した。今月には一周忌を迎える。私の父はいわゆる「本の虫」というやつで、遺されたのは十二畳一間に積み上げられたおびただしい数の蔵書の山だった。なぜか、その整理をするはめになった私は実家の寺に通うこととなる。しかし、人の蔵書というのは面白い。「え?この人がこんな本を読んでたのか?」みたいな発見がある。そして、その蔵書の中に私が参考にしてきた梯實圓氏と藤場俊基氏の著作が出てきたのである。「お父さん、ありがたく貸していただきますね」と借りパクする気満々で、私は自分の書斎に持ち込んだのであった。
というわけで、これも何かの縁であろう。「休んでいる暇なぞないわ」と父にハッパをかけられているのかもしれない。思えば『教行信証』は「信巻」だけではなかった(仏教知識「顕浄土真実教行証文類」参照)。今度こそ最初から順番に『教行信証』に向き合っていかなければならないようだ。私が親鸞のねちっこさに絡め取られる日々は、まだ当分続きそうである。