法事を何年までつとめるのか

【ほうじをなんねんまでつとめるのか】

はじめに

「法事は何年までつとめればいいのか」という疑問をよく耳にします。年忌表ねんきひょうを見るとたくさんの法要が書かれています(関連記事の「年忌法要(法事)」をご参照ください)から、「じゃあ何回忌までやればいいのか」「どこまでやれば大丈夫なのか」「終わりはあるのか」という疑問が生じるのは自然なことだと思います。

「切り上げる」という表現もよく聞きます。「十三回忌までで切り上げる」のように使われます。この単語は仏教辞典を引いても見当たりませんので、おそらく仏教用語ではないのだと思います。

浄土真宗の教義から考える

そもそも、法事は「仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの機会」としてつとめます。『浄土真宗辞典』によれば以下の通りです。

ほうよう 法要
[1] 教えのかなめのこと。
[2] 法事・仏事ぶつじなどともいう。仏教行事全般のこと。 本願寺派では、仏祖ぶっそ礼拝らいはい供養くようし、経典などを読誦どくじゅし、 仏徳ぶっとく讃嘆さんだんして報恩ほうおん至誠しせいを表す行事をいい、 法要以外で仏前で行われる行事を儀式という。
(『浄土真宗辞典』 P.604 より)

浄土真宗には現生げんしょう正定聚しょうじょうじゅという言葉があり、生きている間に「死後、阿弥陀如来の浄土へと往生おうじょうする」ことが定まるとされています。生きている間にもう決まっていますから、故人の救いの可否や行き先が遺族の行動に左右されることはないはずです。

浄土真宗は阿弥陀如来の力によって救われるという他力の教えです。もし「遺族が法事をつとめたことによって故人が救われる」というシステムが成立するなら、それは自力の教えということになります。

例えば、西本願寺では2011年から2012年にかけて「親鸞聖人750回大遠忌だいおんき法要」が勤められました。これは明らかに親鸞聖人が救われることを願ってつとめる法要ではありません。報恩ほうおん感謝かんしゃの思いから宗祖親鸞聖人の徳をたたえ、阿弥陀如来の徳を讃える法要です。

ですから、法事をいつまでつとめるかは教義で決められているわけではありません。

自主的につとめるもの

法事に限らずすべての仏事はあくまで自主的につとめるものです。「ここまでやればOK」「これ以上はやらなくてもよい」という性質のものではありません。

また仏恩報謝をしなくてはいけないタイミングが決められているわけでもありません。毎日が仏恩報謝の日々であり、短い時間であっても毎日仏壇の前に座って一度は手を合わせるなど、簡単なことでも構わないので続けていくことが大事だと思います。

法事とはそのような日々の中にある節目としてつとめるものではないかと思います。自主的につとめるものですから、各々が無理のない範囲でやっていけばいいと思います。やりたくもないのに無理をして年忌法要をつとめる必要はありません。規模を大きくする必要もありません。

例えば、命日に都合がつかない場合には命日から少しずらして土日にしたり、また年単位で動かすこともあります。複数の故人の年忌をまとめて一つの法要としてつとめる方もおられます。その際に年数を動かすこともあります。

まとめ

結局のところ「何年までつとめる」という決まりはなく自主的に行うものなので、自分で決めることになります。何回忌をつとめたからもうやらなくていいとか、仏壇の前に座らなくていいという話ではありません。

仏恩報謝の日々の中で特別な日として年忌法要があり、その日には親戚を集めてみんなでお経を読んだり僧侶を呼んだりしていつもより少し丁寧につとめるということではないかと思います。

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『親鸞聖人 750回 大遠忌|西本願寺』 (http://www.hongwanji.or.jp/daionki/index.html)

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