「廃仏毀釈」雑感 (1)
先日、なかなかおもしろい本に出会った。書店で暇つぶしのために、なにげなく手に取った一冊の本。文筆家の畑中章宏が書いた『廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実』(ちくま新書/2021)という本である。
私は廃仏毀釈についてあまり詳しくはなく、漠然と「江戸時代に仏教寺院に煮え湯を飲まされてきた神社が、明治新政府の国家権力を笠に着て仏教寺院をぶっ壊した」ぐらいの認識であったが、じつはそんなに単純なものではなかったようである。
「廃仏毀釈」とは文字通り、「仏教を廃し、釈迦の教えを棄却する」という意味で、日本において代表的なものは明治新政府によって出された一連の太政官布告(いわゆる「神仏分離令」)を発端とした騒動である。これは、国学が盛んであった藩や仏教寺院に対して不満を持つ神官や民衆が、一連の「太政官布告」を拡大解釈して「廃仏毀釈」の実力行使へと発展したものである。地域によっては仏教寺院が壊滅的な損害を被った。
まず、新政府が「神仏分離」(神と仏を分けて離した状態)をいわなければならなかったのは、「神権的天皇制」(神が天皇に付与した権力によるもの)を目指す方針が打ち立てられたことによる。ここでは、天皇が神官の最高位であると同時に国家君主でもある祭政一致が求められる。つまり、これまでの「神仏習合」(神と仏が混ぜ合わさった状態)のように僧侶の支配下にある神官、あるいは仏教の中にある神道では、神官の最高位である天皇の権威が不十分となる。畑中は、その「神仏習合」の歴史から書き始める。
元来、神道とは自然信仰や渡来人によってもたらされた先祖信仰などが合わさり、土着化していった民間信仰である。しかし、六世紀に仏教が伝来してくると、当時の天皇たちは次々に仏教に帰依していった(聖徳太子が仏教を国家権力の確立と民衆支配のために利用した、という話はコラム「聖徳太子展に思う」に書いているので、そちらも参照されたい)。このような過程で「日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えかた」(前掲書P.19)が生み出された、と畑中は書く。例えば、平安時代には「権現」などに代表される「神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れたもの」(前掲書P.30)、つまり「方便」として現れた仮の姿である、という考え方が生まれた。いわゆる「本地垂迹説」である。これによって、「権現」は神仏習合のシンボルとして神社に祀られ、その祭祀の主導権は神社の境内に建てられた「神宮寺」をはじめとする仏教側が担って神官たちを支配してきた。それは「神仏分離令」が出されるまでの約千年もの間、続いた。
かなりおおざっぱにまとめてみると、寺と神社の関係はこのような歴史をたどってきたのであった。畑中は「権現」についてこのように書く。
神仏習合は権現信仰によって典型的に表されるものであり、神道とも仏教とも言い切れない領域を生み出し、育んできたことは、列島独自の宗教的営為だったのである。しかし、「権現」号は各地での抵抗の甲斐なくほとんどが廃され、現在のような、神道と仏教のあいだに明確な一線を引く信仰形態や、宗教空間を現出させてしまったのである
(『廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実』P.169より)
もともと、新政府の「神仏分離」の意図は、「神社内における仏教要素」と「寺院内における神道要素」の排除や神社の別当・社僧の「復飾」(還俗して神官となること)であり、「廃仏毀釈」(仏像や寺院の破壊・廃寺、一般僧侶の還俗、信仰の禁止)ではなかった。しかし、寺檀制度などによって民衆の統制機関となっていた仏教寺院への反発は、国学が盛んであった藩や神官を含む一部の民衆の中には根強く、これらが爆発するような形で「廃仏毀釈」は行われた。神社の境内にある「神宮寺」はそのほとんどが跡形もなく破壊され、地域によっては神社とは関係の薄い寺院も同様に行われた。いっぽう、天皇は神道の祭祀をつかさどる神官の頂点となり、宮中からも仏教色はみごとに消されていった(明治天皇の父親までの葬儀は仏式であった、という興味深い実例を畑中は引いている)。私たちが日本古来の伝統のように感じている神社の景色は、近代以降の国家権力によって「創られた」景色なのだ。
畑中は以上のようなことを丹念に実例を挙げたうえで、追っていく。そして、すべての民衆が寺院や仏像の破壊に走ったものではなく、それを護る民衆もまた存在していた、と結論づける。畑中はこう書く。
しかし、こと神仏分離、廃仏毀釈については、その暴挙という側面はおもに仏教側による脚色がみられ、また郷土史家や文学者らによる、ドラマティックかつ不確かな描写や叙述によって語られすぎてきたようだ。
(『廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実』P.211-212より)
なるほど、確かに浄土真宗の信仰が篤い地域では廃仏毀釈に反対する「護法一揆」という民衆主体の反対運動が起こっていることからも、畑中の説はある意味うなずける。しかし、私が最初に抱いた「廃仏毀釈」という民衆の行動に対するいくつかの疑問は、畑中の著書では解決されなかった。
なぜ、わずか十年余りで終わったのか。
なぜ、仏教側の多くの僧侶はさしたる抵抗も無く寺院が壊されるのを傍観し、あまつさえ還俗し神に仕えたのか。
その疑問に答えるためには、まず明治政府による「神権的天皇制」を目指すイデオロギーとしての「神道の国教化」のもくろみと挫折、について考えなければならないだろう。次のコラムでは大衆思想史学者の安丸良夫が書いた「神々の明治維新」(岩波新書/1979)を読みながら考えていきたい。そして、そこには浄土真宗本願寺派第21代門主(当時は法主)明如や、彼を支えた島地黙雷という僧侶の影が見え隠れしている。
参考文献
[2] 『神々の明治維新』(安丸良夫 岩波新書 1979年)