「廃仏毀釈」雑感 (2)
さて、前項では廃仏毀釈のおおまかな流れを、畑中章宏の『廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実』を元に書いたわけだが、ここではその「廃仏毀釈」という現象がどのような影響を後世に与えたのかを安丸良夫の『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』を元に考えていきたい。
畑中は廃仏毀釈を「その暴挙という側面はおもに仏教側による脚色がみられ、また郷土史家や文学者らによる、ドラマティックかつ不確かな描写や叙述によって語られすぎてきた」(畑中P.211-212)と結論づけているが、安丸は「神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.1-2)としている。つまり、一連の廃仏毀釈にいたる流れの前後で日本人の考え方は大きく変わった、というのだ。これは、畑中の見方とは大きく異なる。
では、どのような「大転換」が起こり、それは「誰」によって起こされたのか。
それは(前項に書いたように)、浄土真宗本願寺派の僧侶、島地黙雷(1838-1911)について考えることが手掛かりとなる。「政教分離」・「信教の自由」をもたらした僧侶とも評されるこの明治期の僧侶が、本当はなにをもたらしたのか。それを考えることは、いまを生きる私たちにとっても大切なことになるはずだ。
島地黙雷は周防国(現在の山口県周南市 当時は長州藩領内)の本願寺派の寺院に生まれ、勤王派僧侶として活動していた。1868年(慶応4)、鳥羽伏見の戦いで「西本願寺」が京都御所の警備を命じられると、それに乗じて兵を率いて京都に上ろうとするが間に合わず、当時の本願寺第20代広如(大谷光沢(1798-1871))の安否伺いの名目で上京し、長州閥であることを力の背景に本願寺派の宗務に深く関わっていく。1870年(明治3)年、黙雷は法主の命を受け、東京へと赴き政府に働きかけ、民部省内に寺院寮を設置させることに成功した。これが後の大教院設立へと繋がっていく。
時代は一連の神仏分離令から始まる廃仏毀釈の騒擾の真っただ中であった。黙雷は「キリスト教の日本への侵入を防ぐのは仏教である」との論法をもって、このあとも仏教寺院の権益確保のため、同じく長州出身であった木戸孝允(1833-1877)との密接な関係を背景に政府への働きかけを続けた。
その一方で、黙雷は「西本願寺」本山へも行動を起こす。次期門主であるのちの明如(大谷光尊(1850-1903))の欧米視察を企てるが、これは広如の死と明如への法主継職が重なったため、明如の代理として、明如の義兄梅上沢融を団長とした視察団となった。そこには、もちろん黙雷も参加している。この欧米視察によって黙雷は、「真宗ノ外、日本ニテ宗旨ラシキ者ハナシ。一神教デナケレバ世界デ物ハ云ヘズ。幸ニ真宗ハ一仏也」(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.200)との意を強くする。
黙雷が欧米視察に旅立ったころ、日本でも動きがあった。民部省が解体され、日本の寺社仏閣すべてを管理する教部省が設置されたのである。これも黙雷の「神仏合同でキリスト教の流入を防ぐ」という政府への働きかけによるものであったが、その内実は神道の国教化を目論む側からの仏教支配であった。
教部省からは「三条の教則」(1872年(明治5))が発布された。
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事、
二、天理人道ヲ明ニスベキ事、
三、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守スベキ事、(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.182-183より)
仏教各宗の本来もっている教義は封じ込まれ、神仏合同でこの「三条の教則」を説く限りにおいて仏教寺院の存続は許された。神仏分離と廃仏毀釈の嵐は、このようなかたちで、政府側からの政治的な決着がはかられた。教部省大教院がおかれた増上寺では、仏像が取り払われ注連縄がはられ、明如は「法衣のまま柏手をうって降神の式をおこなった」(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.184)。黙雷は視察先から「一大滑稽者場」「真ノ妖怪集場」とこの大教院を批判している。
しかし、このような形での決着は、黙雷の意図したものではなかった。黙雷は「三条の教則」と大教院批判を政府への「建白書」という形で行う。そして、世論に訴えるために新聞・雑誌といったメディアも利用した。その一方で、本山を通じて真宗各派の大教院離脱を画策していく。しかし、その批判は神道を(実質的な)国教化しようとする勢力に向けられたものであり、決して天皇を頂点とする国家の体制にむけられたものではなかった。
黙雷は、強烈な「反キリスト教・真宗第一主義」者であると同時に、神話的な天皇統治の正当性を疑わない「国体主義」者でもあったのだ。そして、それは彼の限界でもあった。
ある人物を批判しようとするとき、「その時代の制約があったのだから、今日的な価値観で批判することは慎むべき」という意見が出されることが多い。いわば、「あの時代だからしょうがない」論法である。しかし、私はアップデートされた価値観で過去の人物を「見直す」ことは必要であると考える。島地黙雷という人物は、「国家権力と仏教の癒着」という開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまった。次項では、島地黙雷が本当に「政教分離」・「信教の自由」をもたらした僧侶なのかを彼の「三条の教則」を批判した「建白書」を中心に考えていきたい。
参考文献
[2] 『神々の明治維新』(安丸良夫 岩波新書 1979年)