「廃仏毀釈」雑感 (3)
日本国憲法第二十条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と、「信教の自由」とそれを担保するための「政教分離」が定められている。これはもちろん、太平洋戦争における国家神道による民衆(各宗教教団)への統制がなされたことへの反省から定められた。そして、この「国家神道による民衆への統制」の道を開いた一人が島地黙雷である、と私は考えている。
黙雷の『三条教則批判建白書』(1872年(明治5))は、前項で書いたように、欧米視察によって目の当たりにした「信教の自由」と「政教分離」を基軸として書かれた、とされている。しかし、黙雷はこう書く。「政教相依」って「国初メテ国トナリ、人初メテ人トナルコトヲ得」る、と。黙雷にとってはあくまでも、「政教相依」(政治=国家権力と宗教がともに相よりそう)の上での「信教の自由」でなければならなかった。そうとなれば、「政ハ人事也、形ヲ制スルノミ。而シテ邦域ヲ局レル也。教ハ神為ナリ、心ヲ制ス。而万国ニ通スル也。」「夫宗旨ハ神為也、人ノ造作スヘキ事ニ非ス」といった政教分離を説いたとされる黙雷の言葉も、ただ単に、明治政府が神道を国教として新たに「造作」することを諫めた言葉であり、「信教の自由」を担保するための政教分離という近代的な意味ではない、ということになる。
それでは、「信教の自由」についてはどうであろうか。黙雷の言葉によれば「教ノ機縁ニ投ス。之ヲ強ユヘキ者ニ非ス」ということになる。つまり「宗教のことは宗教の機縁(正しい教えを求める資質に応じて教えを説くこと)に任せるべきで、これを国家が強制してはならない。」という意味である。ただし、黙雷にとっての「教」(宗教)とは仏教、その中でも最も進化した仏教である浄土真宗のことであり、黙雷は劣った教えの多神教である神道や、人々を惑わす「妖教」であるキリスト教ではないと考えた。つまり、黙雷にとっての「信教の自由」とは、仏教という宗教にのみあてはまるものであった。
確かに、黙雷の「建白書」は、国家が神道を国教化して国民に強いる政策に真っ向から反論を加えるものであった。しかし、それは黙雷が考える宗教的「神道」を「国教」とすることへの批判であり、「皇祖・皇統」「国家に功績のあった人びと」「祖先」への崇敬は非宗教的「神道」であるとして、祭政一致を目指して天皇を絶対的な君主とする制度への批判ではなかった。例えば、黙雷の「三条の教則」の中にある「敬神愛国」への批判は、「敬神」については多くの批判が行われているが、「愛国」については「敬神トハ教也、愛国トハ政也」として、本来領分の違う言葉を同一に使用することに批判をするのみであり、「愛国」への直接的な批判はなされていない。それどころか、「政家専ラ好制ヲ取リ、以テ国体ヲ堅守」せしめよと、政治の領域においては国体を護持することを説くのである。 このような黙雷の主張について安丸良夫はこのように書く。
こうした考え方には、神道非宗教説によって、国家的神々の受容と信教の自由とは矛盾しないのだとする、のちの国家神道体制の原理に先鞭をつけるような性格があった。島地は、神道国教主義的な政策と理念を、政教の混同という見地からはもっとも鋭く批判したが、皇祖皇霊・国家の功臣・祖先などへの崇敬そのものを批判する意思はまったくなく、むしろ、神道の神々を皇祖や功臣のことだとして、近代的な通念とは矛盾しないような内容のものへと救いだそうとしたのであった。
(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.203-204より)
黙雷は、明治政府が「神道」(黙雷が考える「宗教的神道」)を国教としておしつけてくることは耐えがたがったが、明治政府が目指していた「天皇を祭政一致の絶対君主とする国家体制(国体)」には賛同していた。そこで、彼が主張したのが「政治は政治の領域で国体を護り、宗教は宗教の領域でキリスト教から国体を護る(それにふさわしいのは浄土真宗のみである)。政教はお互いに相より、天皇を頂点とした国体を堅守していく」という主張であった。いわば、国家権力と「握る」ことによって、仏教の既得権益を護ろうとしたのである。
1879年(明治22)に発布された「大日本帝国憲法」の第二十八条「信教の自由」によると、「日本臣民ハ、安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務に背カザル限ニ於テ、信教ノ自由ヲ有ス」とある。つまり、「皇室祭祀」や「天皇の神聖性」を犯すことなく、これに進んで協力することによって「信教の自由」は保障される。これによって、神道は「宗教」ではなく、国民すべてが遵守すべき「道徳」であるという奇妙な進化を遂げる。その奇妙な進化は国民の守るべき道徳として『教育ニ関スル勅語』(『教育勅語』)(1890年(明治23))を生み出した。ここには、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」とあり、これは天照大神の「神勅」に従って、国民が天皇に仕えることを意味する。つまり、黙雷が非宗教的とした「神道」は天皇の宗教的権威を前提とした祭政一致を目指す「宗教」そのものであった。そして、この「宗教(神道)」は「国家行事や学校行事(祝典・儀式)」として実質的に強制されていく。やがて、これらのことが国家神道体制としてほとんどすべての「宗教教団」を飲み込み、戦地へ国民を送り出し、殺し合いに参加させていくこととなった。「信教の自由」と「政教分離」をもたらしたとされる島地黙雷の主張は、天皇と阿弥陀仏を同体とし、敵を殺すことは弥陀の本願にかなうと説き戦地に送り出した戦時教学に結実していく。
さて、廃仏毀釈から始まった私の雑感もそろそろ終わる。安丸良夫は廃仏毀釈から始まる諸政策は、国民的規模での意識統合の試みであったとし、それは失敗に終わった、とした。しかし、と安丸は続ける。
国体神学の信奉者たちとこれらの諸政策とは、国家的課題にあわせて人々の意識を編成替えするという課題を、否応ない強烈さで人々の眼前に提示してみせた。人々がこうした立場からの暴力的再編成を拒もうとするとき、そこに提示された国家的課題は、より内面化されて主体的にになわれるほかなかった。
(『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』P.210-211より)
廃仏毀釈という、国家権力による暴力的な国民意識の統合は確かに失敗に終わった。しかし、より巧妙に「国家的課題にあわせて人々の意識を編成替え」することは現在も行われているように思う。わたしたちは、ある選択をするとき、自分の意思によって主体的に「にな」って選択したと思っているが、じつは巧妙に国家権力によって「にな」わされている、選ばされているのかもしれない。思えば、島地黙雷は神道による「国民的規模での意識の再統合」には主体的に反対したが、国体主義による「国民的規模での意識の再統合」には主体的に加担していった。第二の「黙雷」は、もうすでにわたしたちの世界にいるのかもしれない。
参考文献
[2] 『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈―』(安丸良夫 岩波新書 1979年)
[3] 『島地黙雷 「政教分離」をもたらした僧侶』(山口輝臣 山川出版社 2013年)
[4] 『島地黙雷の神道観』 (https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_184/_pdf/-char/ja) (野世英水 1994年)
[5] 『島地黙雷の政教関係論―維新直後から明治六年前半まで―』 (https://www.researchgate.net/profile/Hitoshi_Nitta/publication/342644499_daodemoleinozhengjiaoguanxilun/links/5efe664492851c52d61365b5/daodemoleinozhengjiaoguanxilun.pdf) (新田均 1988年)