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正覚寺

(浄土真宗本願寺派 成等山 正覚寺)

沿革

成等山正覚寺は慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いにおいて、三田藩の藩主がその激烈な戦いに世の無常を感じ、出家したことが始まりとされている。

慶長六年(一六〇一年)に能勢郡多田銀山に一寺を構え、寺号を「成等山正覚寺」と称した。

開基は釋了西。没年は寛永十五年(一六三八年)。

寛永二年(一六二五年)五月には大阪北三郎右衛門町に移り、享保十六年(一七三一年)第七世住職了永のときに江戸堀下通に移転した。

江戸時代中期に活躍した第十四世住職了導は学識僧として知られ、寮を設けて僧侶を養成し、本山より勧学位を授けられた。

また、江戸時代を通じて、参勤交代の際の大名(主に紀州藩)宿泊所として利用されていた。座敷(書院)の廊下には当時の侍が炊事をした跡が今も残っている。その後、昭和に入るまでの約二百年間を江戸堀にて過ごし昭和一七年(一九三九年)に第十八世住職釋玄雍は、現在地である住吉区東粉浜へと伽藍を移した。

現存している本堂と座敷(書院)は江戸堀にあった伽藍を、そのまま縮小し移築したものであり、江戸中期の真宗寺院の様子を今に伝えるものである。また、本堂の襖絵は愛知芸術大学准教授井出創太郎氏による銅版画である。

現住職の釋康春は平成十五年に第二十代住職となった。

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