三帰依文

【さんきえもん】

さん帰依きえもんとは、「ぶつ」(※1)「ほう」(※2)「そう」(※3)の三宝さんぼうに帰依することをあらわした文である。帰依とは、サンスクリット(梵語ぼんご)「サラナ」の漢訳かんやくで、原語げんごが「庇護ひごを求める」「頼りにする」ことから、すぐれたものに対して自己の身心を投げ出して信奉しんぽうすることを意味する。(仏教知識 「三宝」参照)

初期しょき仏教ぶっきょう教団きょうだんでは、入信にゅうしん仏教ぶっきょうとして生きること)の際には、三帰依文がとなえられていた。三宝に帰依することは仏教徒になるための基本的な条件であった。また、現在においても入信の際に限らず、たびたび儀式ぎしき法要ほうよう集会しゅうかい冒頭ぼうとう一斉いっせい唱和しょうわされている。

世界的な仏教徒の集会では、共通の三帰依文としてパーリ語が使用される。

  • ブッダーン・サラナーン・ガッチャーミ
    (私は仏に帰依します。)
  • ダンマン・サラナーン・ガッチャーミ
    (私は法に帰依します。)
  • サンガーン・サラナーン・ガッチャーミ
    (私は僧に帰依します。)

これを繰り返し三度唱和する。

大方広仏だいほうこうぶつ華厳経けごんぎょう』(六十巻ろくじっかんぼん浄行じょうぎょうぼん」は、菩薩ぼさつ(さとりを目指す修行者)がさとりを目指すための行いには願いがそなわってこそ「浄行」(清らかな行い)になるとして140の「行いと願い」をいている。この中で三宝に帰依するときのそれぞれの願いもしるされている。

自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意
自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海
自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙 (『大正新脩大蔵経』第9巻 430頁下~431頁上より)

日本の各宗派かくしゅうはではこれをくだしたものを三帰依文として、前後に文(出典不明)を付けて「礼讃文らいさんもん」(※4)として唱和することが多い。以下に「礼讃文」とその「私訳」を示す。

礼讃文

 人身にんじんけがたし、いますでにく。仏法ぶっぽうきがたし、いますでにく。
この今生こんじょうにおいてせずんば、さらにいずれのしょうにむかってかこのせん。大衆だいしゅもろともに至心ししん三宝さんぼう帰依きえしたてまつるべし。

 みずからぶつ帰依きえしたてまつる。まさにねがわくは衆生しゅじょうとともに、大道だいどう体解たいげして無上意むじょういをおこさん。
 みずからほう帰依きえしたてまつる。まさにねがわくは衆生しゅじょうとともに、ふかく経蔵きょうぞうりて智慧ちえうみのごとくならん。
 みずからそう帰依きえしたてまつる。まさにねがわくは衆生しゅじょうとともに、大衆だいしゅ統理とうりして一切いっさい無碍むげならん。

 無上むじょう甚深じんじん微妙みみょうほうは、百千万劫ひゃくせんまんごうにもあいうことかたし。われいま見聞けんもん受持じゅじすることをえたり。ねがわくは如来にょらい真実義しんじつぎしたてまつらん。 (『浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典』P.2より)

私訳

このに人としてせいを受けることはまれなことです。しかし、今すでに生を受けています。そして、人として生を受けても釈尊しゃくそんの説かれた教えに出遇であうことはさらに難しいことです。しかし、今すでにこの教えに出遇うことができました。この生において迷いの道を断ち切らなければ、私の生はどこに向うのでしょうか。私はこの教えに生きるすべての人びとと共に、まごころをもって仏、法、僧の三宝に帰依いたします。

「私は仏に帰依いたします。そして生きとし生けるものとともに、このうえないこころをおこして、この教えを実践じっせんすることをねがわずにはいられません。

私は法に帰依いたします。そして生きとし生けるものとともに、この教えによって、深い海のような智慧ちえることを願わずにはいられません。

私は僧に帰依いたします。そして生きとし生けるものとともに、この教えに生きるすべての人びとをへだてなく大切たいせつにして、教えを実践することにさまたげがないように願わずにはいられません。」
(「」内が『大方広仏華厳経』(六十巻本)「浄行品」にあたるところ)

この上ないはなはだ深くすぐれた釈尊の説かれた教えは、どれだけ長い時間をついやしても出遇うことは難しいことです。しかし、今すでにその教えに出遇うことができ、これをりどころとすることができました。私は、普遍的ふへんてき真実しんじつであるこの教えをあきらかにできるように願わずにはいられません。

以上

「三帰依文」からは、ちかうという「行い」にも必ず「願い」が具わらなければならないことがうかがれる。仏の「願い」によって生かされ、自らの「願い」に生きていく。漫然まんぜんとした(目的のない)形式的な誓いは避けて、有意義な三帰依が求められている。

語注

※1 仏
サンスクリット(梵語)「ブッダ」の漢訳で「仏陀ぶっだ」とも訳す。原語が「めざめたもの」「さとったもの」などの意味がある。ここでは、仏教の開祖である釈尊や経典きょうてんによってあきらかにされた諸仏しょぶつを指す。
※2 法
サンスクリット(梵語)「ダルマ」の漢訳。原語は「同じ性格をたもつもの」「法則ほうそく」「行為こうい規範きはん」などの意味があるが、ここでは釈尊(仏陀)が説いた教え。
※3 僧
サンスクリット(梵語)「サンガ」の漢訳。広義こうぎには、釈尊の教えにしたがってその教え(法)を実践じっせんする出家者、在家信者ざいけしんじゃ見習修行者みならいしゅぎょうしゃの集団。狭義きょうぎには、律蔵りつぞう規定条件きていじょうけんたした出家者の集団。後にこれら集団の構成員である出家者そのものを意味するようになった。
※4 礼讃文
三宝などを礼拝らいはいし、そのとくたたえる文。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『ゴータマ・ブッダ 中<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)
[4] 『中村元の仏教入門』(中村元 春秋社 2014年)
[5] 『大正新脩大蔵経 第9巻』(大蔵出版 1988年)
[6] 『現代意訳 華厳経』(原田霊道 書肆心水 2016年)
[7] 『和訳 華厳経』(鎌田茂雄 東京美術 1995年)
[8] 『浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典』(浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編纂委員会 本願寺出版社 2010年)

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