大信釈 (1)

【だいしんじゃく 1】

別序べつじょ」に続いて、親鸞は衆生しゅじょうが浄土に往生おうじょうするための信心しんじんについて、

つつしんで往相おうそう回向えこうあんずるに、大信だいしんあり。だい信心しんじんはすなはちこれ長生ちょうせい不死ふし神方しんぽう欣浄厭穢ごんじょうえんね妙術みょうじゅつ選択せんじゃく回向えこう直心じきしん利他りた深広じんこう信楽しんぎょう金剛不壊こんごうふえ真心しんしん易往いおう無人むにん浄信じょうしん心光摂護しんこうしょうご一心いっしん希有けう最勝さいしょう大信だいしん世間せけん難信なんしん捷径せっけい証大しょうだい涅槃ねはん真因しんいん極速円融ごくそくえんにゅう白道びゃくどう真如しんにょ一実いちじつ信海しんかいなり。このしんすなはちこれ念仏ねんぶつ往生おうじょうがん(第十八願)よりでたり。この大願だいがん選択せんじゃく本願ほんがんづく、また本願ほんがん三心さんしんがんづく、また至心ししん信楽しんぎょうがんづく、また往相おうそう信心しんじんがんづくべきなり。

(『浄土真宗聖典 註釈版』P.211より)

【現代語訳】
 つつしんで、 往相おうそう回向えこうをうかがうと、 このなか大信だいしんがある。 だい信心しんじんは、 生死しょうじ超えいのち不思議ふしぎほうであり、 浄土じょうどねが娑婆しゃば世界せかいいとうすぐれたみちであり、 阿弥陀あみだぶつえらこうしてくださったうたがいのないこころであり、 他力たりきよりあたえられるふかひろ信心しんじんであり、 金剛こんごうのように堅固けんご破壊はかいされることのない真実しんじつこころであり、 それをれば浄土じょうどへはきやすいが自力じりきではられないきよらかなしんであり、 如来にょらい光明こうみょうにおさめられてまもられる一心いっしんであり、 たぐいまれなすぐれた大信だいしんであり、 世間せけん一般いっぱんかんがえではしんじがたい近道ちかみちであり、 このうえないさとりをひら真実しんじついんであり、 たちどころにあらゆる功徳くどくたされるきよらかなみちであり、 このうえないさとりのとくをおさめた信心しんじんうみである。

 この信心しんじん念仏ねんぶつ往生おうじょうがん (第十八願) にちかわれている。 このおおいなるがん選択せんじゃく本願ほんがんづけ、 また本願ほんがん三心さんしんがんづけ、 また至心ししん信楽しんぎょうがんづける。 また往相おうそう信心しんじんがんともづけることができる。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.159-160より)

として、これは他力の大信心であり、その徳の異名を「十二の嘆釈」として讃嘆している。以下に『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)を参考に出処しゅっこを挙げる。

十二の嘆釈たんじゃく

1. 長生不死の神法 『続高僧伝』(道宣)
観経疏かんぎょうしょ』(元照がんじょう
2. 欣浄厭穢の妙術 かん無量むりょう寿経疏じゅきょうしょ』(善導ぜんどう
往生おうじょう要集ようしゅう』(源信げんしん
3. 選択回向の直心 選択せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』 (法然ほうねん
4. 利他深広の信楽 仏説ぶっせつ無量むりょう寿経じゅきょう
往生おうじょう論註ろんちゅう』(曇鸞)
5. 金剛不壊の真心 かん無量むりょう寿経疏じゅきょうしょ』(善導ぜんどう
6. 易往無人の浄信 『仏説無量寿経』
『無量寿如来にょらい
7. 心光摂護の一心 観念かんねん法門ぼうもん』(善導)
浄土じょうどろん』(天親)
8. 希有最勝の大信 かん無量むりょう寿経疏じゅきょうしょ』(善導ぜんどう
9. 世間難信の捷径 仏説ぶっせつ阿弥陀あみだきょう
勧縁かんえんもん」(張掄ちょうりん
10. 証大涅槃の真因 無量むりょう寿じゅ如来にょらい
11. 極速円融の白道 浄土じょうどろん』(天親)
かん無量むりょう寿経疏じゅきょうしょ』(善導ぜんどう
12. 真如一実の信海 往生おうじょう論註ろんちゅう』(曇鸞)

以上のように、親鸞は経典や七高僧などの言葉を引用しながら、信心にそなわる徳を讃嘆した。そして、この大信心が往生の正因であり、これが『仏説無量寿経』「第十八願文」に誓われたものであるとして、五つの願名として顕した。

次に親鸞は、このような徳を具えた信心が往生の正因であることを示すため、本願の願名がんみょうを五つ挙げる。

  1. 念仏往生の願
  2. 選択本願
  3. 本願三心の願
  4. 至心信楽の願
  5. 往相信心の願

「念仏往生の願」と「選択本願」は法然によってつけられた本願の願名である。親鸞はその法然の願名をけたうえで、三つの独自の願名を挙げている。「本願三心の願」という願名では、本願に「至心・信楽・欲生」の三心が誓われていることを示す。「至心信楽の願」という願名では、「至心 = 真実心・信楽 = 信心」であることから、如来の真実心が回向された名号を疑いなく受け取る真実の信心によって往生が決定けつじょうすることが示される。また、この「至心信楽の願」は、信巻の冒頭に挙げられた標願ひょうがん(各巻の内容をあらわす願名)にもなっている。「往相信心の願」という願名では、往相(往生浄土の相)の正因しょういんとして衆生に回向されているのは、三心がおさめ取られた「信楽」の一心であることを示している。

親鸞はこの三つの願名によって「至心・信楽・欲生」の三心が「信楽」の一心に摂まることを示した。この内容は、大信釈に続く「三一問答」(仏教知識「三一問答 (1)」など参照)で詳しく論じられていく。

結びに、

しかるにじょうもつぼんてんぐんじょうじょうみょうじょうじがたきにあらず、真実しんじつしんぎょうまことにることかたし。なにをもつてのゆゑに、いまし如来にょらいりきによるがゆゑなり、ひろだいこうちからによるがゆゑなり。たまたまじょうしんば、このしんてんどうせず、このしんならず。ここをもつてごくあくじんじゅうしゅじょうだいきょうしん、もろもろのしょうそんじゅうあいるなり。

(『浄土真宗聖典 註釈版』P.211-212 より)

【現代語訳】
ところで、つねまよいのうみしずんでいるぼんまよいの世界せかいまれかわかわりしつづけるしゅじょうは、このうえもないさとりをひらくことがむずかしいのではなく、そのさとりにいた真実しんじつ信心しんじんることがじつむずかしいのである。なぜなら、信心しんじんるのは、如来にょらい衆生しゅじょうのためにくわえられるすぐれたちからによるものであり、如来にょらいこうだいですぐれた智慧ちえちからによるものだからである。たまたま、きよらかな信心しんじんたなら、この信心しんじん真如しんにょにかなったものであり、またいつわりをはなれている。そこで、きわめてふかおも罪悪ざいあくをそなえたしゅじょうも、おおきなよろこびのこころて、ほとけがたはこのものをいとおしみ、おまもりくださるのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.160-161 より)

として、さとりを開くことが難しいのではなく、他力の信心を得ることが難しいと示す。しかし、この他力の信心を得れば、仏がたが「浄信」を得た罪悪深重の衆生も、いとおしみ護ってくれる徳があるとして、その徳を改めて讃嘆している。

「信巻」に出体釈しゅったいじゃくのない理由

けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)は各巻の始めに、その巻の主題のたい(本体・本質)を表す釈文しゃくぶんが置かれている。これを出体釈という。しかし、「信巻」にはこの出体釈は置かれていない。まずは、各巻の主題とその体を挙げる。

  主題
教巻 真実の教 だい無量むりょう寿経じゅきょう
行巻 大行だいぎょう 無礙むげこう如来にょらいみなしょうする(名号みょうごう
信巻 大信
証巻 真実の証 利他りた円満えんまん妙位みょうい無上むじょう涅槃ねはん極果ごくか
真仏土巻 不可思議ふかしぎこう如来
無量むりょう光明こうみょう

このように、信巻のみ「体」が示されていない。これは信巻の主題である大信(真実の信心)が如来より回向された信心であり、南無阿弥陀仏という名号のはたらきが私たち衆生にまさしくいたり届いたすがたであるから、その名号以外に体はないからである。つまり、「必ずすくう」という仏心ぶっしんが名号(大行)となって届き、それを疑いなく信じ受け取ることが真実の信心(大信)であるので、大信の体は名号であり、すなわち大行となる。このように、大行が私に届き至って大信となることをあらわすために出体釈を置かなかった、とされている。なお、信巻の三一問答においては、本願に誓われる「至心・信楽・欲生よくしょう」の三心にそれぞれの体をあらわした「三重さんじゅう出体しゅったい」が置かれ、「至心」の体を「尊号」(名号)としている。

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2014年)
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『親鸞の教行信証を読み解く―信巻―』(藤場俊基 明石書店 2012年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)