婆羅門(バラモン)
バラモンとは、古代インドの四姓制度の最上位の身分で、サンスクリット(梵語)・パーリ語ではブラーフマナ。漢訳では「婆羅門」と記される。四姓制度とは、人びとを
- 司祭者 ブラーフマナ(婆羅門)
- 王族 クシャトリア(刹帝利・刹利)
- 庶民 ヴァイシヤ(毘舎)
- 隷民 シュードラ(首陀羅・首陀)
の身分に分け、さまざまな制約をつくることにより、より上位の身分が優遇されるという差別制度である。これは、紀元前1500年頃からアーリア人がインドに侵入し、先住民族を征服する中で、自らの民族の優位性と支配構造強化のために、『ヴェーダ聖典』の編纂を通してバラモン教(『ヴェーダ聖典』に基づく開祖のいない宗教)を確立し作り上げていったものである。紀元前1000年~紀元前600年頃にはガンジス河上流の地域で確立し、現在のカースト制度に至る。
最上位のバラモンは、梵天(ブラフマン)の口から生まれたとされ、『ヴェーダ聖典』を教授し、その教えであるバラモン教の司祭を司り、古代インドの宗教・文化・学問の中心となり、王族もバラモンの教えには逆らうことができず、支配階級の最上位であったことが窺える。
しかし、年代が釈尊在世の時代に下がり、商業の発達などによりマガダ国やコーサラ国などの都市国家が誕生すると、バラモンを支えてきた氏族制農耕社会が崩壊していった。これによりバラモンの権威は失われていき、社会的勢力は王族クシャトリアや商人である庶民ヴァイシヤの力が増していった。このような時代背景の中、「反バラモン教」的宗教が数多く成立し、仏教もその一つであった。仏教学者の中村元は、
原始仏教の社会的背景に関しては、その当時急激に優勢となった商人階級は、バラモン教によってあてがわれた以上の社会的地位を認めてくれた教説(仏教)に魅力を感じた。バラモン教においては、バラモンたちと王族たちの優位が認められていたのに、仏教はそれを理論的には承認しなかったからである。 (『ゴータマ・ブッダ 上<普及版>』P.23より)
と釈尊の出現の背景を述べている。 また、釈尊は『スッタニパータ』において、
一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為(こうい)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。 (『ブッダのことば - スッタニパータ - ワイド版』P.35より)
と、人は生まれによって人の価値が決まるのではなく、その行為によって決まるとして、バラモン教の四姓制度を厳しく批判している。
古代インドでは、社会情勢や仏教など新宗教の興起によりバラモンの権力は失われ、バラモン教の教えも衰退していった。しかし、『ヴェーダ聖典』の教えはヒンズー教として受け継がれた後、仏教がヒンズー教に吸収されるかたちで衰退すると、四姓制度などの差別制度は遺され、一層差別の厳しいカースト制度へと移行して現在まで多くの人々を苦しめている。ヒンズー教に吸収されるときに仏教徒の多くはカースト制度の最下層に置かれたともいう。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『ゴータマ・ブッダ 上<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)
[4] 『ブッダ その思想と生涯』(前田專學 春秋社 2012年)
[5] 『ブッダのことば―スッタニパータ(ワイド版)』(中村元 岩波書店 1991年)