私とクリスマス

【わたしとくりすます】

はじめに

毎年、ハロウィンが終わり11月に入ると街の様子に変化が訪れます。あちこちが電飾で緑色や赤色に彩られ、ツリーが立てられ、プレゼント需要を見越した玩具が発売され、特別な衣装を着た限定キャラクターがガチャに登場し……。今回は日本の冬の風物詩、クリスマスのお話です。

日本におけるクリスマス

クリスマスとは、キリスト教において重要な人物であるイエス・キリストの降誕こうたん生誕せいたん)を祝うお祭りです。ちなみにじょうしんしゅうにも親鸞しんらんしょうにんの誕生を祝う降誕ごうたんがあります。ただし、降誕会よりも報恩講ほうおんこうが重視されます。この世に生まれられた日よりお浄土に生まれられた日の方を大事にするわけですね。

さて、このコラムを書くにあたって『愛と狂瀾きょうらんのメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』という本を読みました。クリスマスの成り立ちについて知りたかったのですが、この本ではそれよりも日本においてクリスマスがもよおされてきた歴史について詳しく書かれていました。これはこれでとても面白かったです。

この本によれば、まず日本のクリスマスは1549年のキリスト教伝来から始まりました。1568年に織田信長が京都に入ります。彼はキリスト教を保護しました(というより、利用しました)。しかし1587年、豊臣秀吉がれん追放令を出してからはキリスト教は排除されていきました。徳川家康もこれを全国へ公布し、キリスト教の一掃を図りました。これが鎖国です。彼らがキリスト教を排除したのは、ヨーロッパのキリスト教国が日本をキリスト教の国にし、日本の文化を破壊しようとしていると考えたからです。この政策により日本人はキリスト教から距離を置くことになりました。

明治時代に入ってもこの傾向は変わらず、あくまで黙許もっきょ黙認もくにん)だったようです。しかしこの時代に日本は西洋の国々に肩を並べるために西洋のシステムを取り入れていきます。ここで日本政府は「宗教としてのキリスト教」を排除し、「文化としてのキリスト教」を受け入れていきます。そして、キリスト教の文化の中からクリスマスが受け入れられるようになりました。キリスト教から宗教部分が抜かれ、クリスマスが残ったわけです。

明治時代の人々も今のようにクリスマスには大騒ぎをしていたようです。1906年に日露戦争が終わったのを区切りとして大きく盛り上がっていくことになります。太平洋戦争中はさすがにしゅくされますが、戦争が終わるとまた大騒ぎが再開されます。

クリスマスは時代によっていろいろなとらかたをされました。大騒ぎするための日であったり、子供のための日であったりしました。そして、1973年の石油ショックの頃からは若者たちのしゅくさいへと変わっていきました。1983年頃からは「男と女のクリスマス」になっていきます。2010年代に入るとその傾向も変わっていき「恋人たちの日」という空気が薄れていきます。その代わりに盛り上がっていくのがハロウィンで、これは恋愛と関係ないところが気楽です。若者の恋愛離れということでしょう。

以上が私なりのまとめとなります。この本を読む限り、日本におけるクリスマスは多くの人にとってはキリスト教とは無関係なお祭りといえます。

宗教行事としてクリスマスを行う

次に私自身がクリスマスにどう向き合うのかを考えてみます。まずクリスマスを宗教行事とみなして、私がイエス・キリストをたたえる目的で参加するとしたら……浄土真宗の教義的に問題があるとは思いませんがやはり不自然ですね。私がイエス・キリストの降誕を祝う理由が見当たりません。偉人の1人として敬意は払いますが、わざわざ生誕を祝うお祭りをしようとは思いません。

騒ぐ口実としてクリスマスを行う

それでは、キリスト教とは関係ないお祭りとして楽しむのはどうでしょうか。これはこれでイエス・キリストやキリスト教徒の方々に失礼ではないかとも思います。ただし、だからといって私は他の人に「失礼だからクリスマスをやめろ」なんて言うつもりはありません。あくまで私が個人として、宗教者の端くれとして一度考えておくべき問題だと思っただけです。

現実的な対応

さて、では現実的にクリスマスに誘われたらどうするか?ということになりますが、おそらく私も参加して一緒に楽しむことを選ぶでしょう。過去に友人が催した集まりに参加したことがあります。そのときは周りに合わせて振る舞いました。果たしてこれでいいのかなと少し頭に引っかかりつつも、「宗教」よりもその場の「空気」を優先しました。

特にとがめられるような行為とは思いませんが、やはりこれは「宗教しゅうきょうのおいしいところだけをつまみぐいする行為」ではあると思います。それならば、浄土真宗や仏教の行事に対して同じことがあっても文句は言えないなと思いました。例えば「普段は仏教に関心がない人がそうのときだけ仏教徒になる」みたいなことですね。これは仏教に触れていただく数少ない機会でもあり、葬儀だけでも関心を持っていただけることはありがたいかなと私は思うのですが。

まあクリスマス会への参加はするにしても、自分で開催することはないかなと思います。例えばお寺でクリスマスをきっかけとしてイベントを開くのはちょっと無理ですね。何にかこつけてイベントを開いても勝手ではあるのですが……。このあたりに私の中での線引きがあるのでしょう。クリスマスには消極的賛成といったところでしょうか。「他宗教にどう向き合うか」という話として考えてみると、コラム「他の宗派のお葬式に行くときは?」の内容に通じるところがあるかもしれません。

他宗教のつまみぐいといえば、キリスト教式の結婚式もクリスマスと似たような性質を持っているかもしれません。これも私にとっては「呼ばれたら行くけど自分からはまずやらない」ものですね。

クリスマスと私

さて、ここまで長々と理屈をこねてきました。これを読まれた方は私が僧侶としてさぞ真面目にこの問題に向き合っているのだろう、毎年クリスマスを迎えるたびによほど苦悩しているのだろうと思われるかもしれません。

実際には全然悩むことがないんですね。悩む機会が無いといった方が正確かもしれません。理由は読者の皆様でご想像いただければと思います(お察し下さい)。……私も悩める立場になれればいいのですが。

参考文献

[1] 『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』(堀井憲一郎 講談社 2017年)

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