ミョウガと愚者
晩夏から秋にかけて旬の食材となる「ミョウガ」、天ぷらや酢の物、薬味にも使われるショウガ科の植物である。これを漢字で「茗荷」と表記するが、その由来の一つとして釈尊の弟子の生涯が関わっていることは、あまり知られていないのではないだろうか。 それは、周梨槃特という仏弟子の生涯である。周梨槃特はサンスクリット(梵語)でチューダ・パンタカという。私たちにとって身近な『仏説阿弥陀経』の聴衆(その場で話を聴いていたもの)の一人であり、ここでは周梨槃陀伽と訳されている。
チューダ・パンタカは、シラーバスティー(舎衛城)でバラモンの子として生まれた。彼は幼いころから物事を記憶することが苦手で、自らの名前を憶えることすら叶わなかった。一方で彼には兄がいたが、その兄マハー・パンタカは、勉学に秀でており、早くからバラモンとしての学問を修めていた。しかし、バラモンの教えよりも釈尊の教えが勝れていることに気付き、釈尊に帰依し出家をする。兄は瞬く間に、すべての煩悩を滅した修行者として最高の地位である阿羅漢にまで達した。やがて、兄を追うようにチューダ・パンタカも出家をした。
ところが、チューダ・パンタカは釈尊の説法をいくら聴いても理解ができない。それどころか、簡単に教えを説いた詩であるわずか四行の偈文ですら暗唱することができない。そして自らの名前も憶えられないために、名前を記したものを荷わされた。他の出家をしているものからは、「愚鈍」(頭のはたらきが悪く間がぬけていること)であると軽蔑され虐められた。人々から「優秀」と讃えられている兄には、ついに「愚鈍」な弟が重荷となる。兄はチューダ・パンタカを還俗(出家をやめること)するように追い詰める。チューダ・パンタカは、自らの「愚鈍」を嘆くと同時に、釈尊のもとから離れたくないという悲しみから途方に暮れる。しかし、このことを知った釈尊は、チューダ・パンタカに救いの手を差し伸べる。
釈尊は、自ら愚者であることを嘆き悲しむチューダ・パンタカに、教団から出ていく必要はないと説き、「愚者は愚者であることの自覚によって賢者となる。愚かにも自らを賢者であると考えるものこそ愚者である。」と諭して、彼に合った修行を提案した。それは、一枚の布を与え、出家者の履物(あるいは精舎とも)を清めながら、「塵を払い、垢を除かん」という偈文を唱えさせるものであった。それと同時に釈尊は、今まで彼を虐めてきた出家者には、彼を見かけるとこの偈文を彼に教えるようにと課した。彼は、ひたすら「一心」に与えられた布で汚(けが)れを拭い、偈文を唱えた。やがて、記憶が苦手であった彼も、この偈文を暗唱するまでになる。そして、釈尊が提案した修行の本質を理解し、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり・腹立ち)・愚痴(真実の道理に対する無知)の三毒が心の汚れであり、これを取り除かなければ煩悩をなくすことはできないと悟り、阿羅漢にまで達したと伝えられる。
この周梨槃特の物語は、仏法が愚者も賢者も差別しない例としてしばしば挙げられる。しかし、浄土真宗親鸞聖人の教えに依るならば、周梨槃特にはとてもおぼつかない私の姿が浮かび上がってくる。周梨槃特は「一心」に専ら汚れを拭き続けた。行の形態にこそ違いはあるが、私自身は「一心」で専らであり続けているのか、愚者という自覚があるのかが問われてくる。親鸞聖人88歳の時、乗信坊に宛てた手紙の中で、師である法然聖人の言葉を引き、「『浄土宗の人は愚者になりて往生す』ということを確かにお聞きしました」と、浄土の教えに依るものは愚者になって浄土に往生するのであって、自らを賢者であると考えるものは浄土には往生できないであろうと法然聖人の教えを紹介している。この言葉は、釈尊がチューダ・パンタカに諭したものと重なり合う。うっかりすると「周梨槃特でも悟りをひらくことができたのだから」と、自らの下位に位置付けることで安心する。このような傲慢になる私はいないか自問が必要となる。
最後にミョウガの話に戻りたい。周梨槃特が亡くなった後にお墓がつくられた。このお墓の周りには、今までには見たこともない花が咲いたという。それがミョウガであった。「名前を記したものを荷わされた」という周梨槃特の物語にちなんで、「茗荷」と呼ばれるようになったという。後世の人たちは、周梨槃特をからかって、ミョウガを食べると物忘れをすると噂をしたという。もちろん、ミョウガを食べて物忘れをするという科学的根拠があるはずもなく、名前の由来も俗説に違いない。しかし、この俗説はチューダ・パンタカがそれだけ人々に親しまれたからこそできあがったものではないだろうか。
ちなみに、私は野菜嫌いであるが、ミョウガはなぜかたまに食する。少し美味しいとも思う。おそらく今書いたこの原稿のことも忘れるのかも知れない・・・
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1996年)
[4] 『仏弟子の生涯 上<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)