「聴く」と「聞く」
「真宗は聴聞に始まり、聴聞に終わる」「仏法は聴聞にきわまる」・・・皆さんはこんな言葉を聞いたことはありませんか?浄土真宗において「聴聞(お聴聞)」という言葉は、仏法やみおしえを「きく」行為のことです。私たち真宗門徒は、この言葉をとても大事にしてきました。
この「聴聞」と言う言葉は同じ「きく(聴く、聞く)」という言葉が重ねられてできています。では、この「聴」と「聞」という漢字に意味の違いはあるのでしょうか?『岩波 新漢語辞典 第三版』によると「聴」は「①耳をそばだてて聞く。聞きとる。②ききいれる。ききしたがう。ゆるす。」となっています。そして、「聞」は「①音声が耳に入る。きこえる。きく。」となっています。つまり、「聴聞」とは「耳をそばだてて注意をむけて聴き、そして聞こえてきたそのままを心にとどめる」という意味になります。
親鸞は『顕浄土真実教行証文類』の中で、聴聞と言う言葉の左訓(親鸞自身の註釈)に「ユルサレテキク シンジテキク」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.145)と書き記しました。また、「聞」の字については、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251)と書いています。親鸞にとって「聴聞」とは「仏願の生起を罪業深重の凡夫である自分がユルサレテ聴き、聞こえてくる仏願の本末を疑うことなくシンジテ心にとどめる」ということであったのでしょう(「仏願の生起本末」については仏教知識「深信(二種深信)」を参照)。
さて、では私たちがお聴聞を続けているとどうなるのでしょうか。仏法をよく理解して充実した生活をおくれるようになるのでしょうか。それとも、阿弥陀如来の慈悲につつまれて、毎日がおかげさまと感謝の心でおだやかに過ごせるようになるのでしょうか。
私に限って言えば、まったくそうではありません。いや、むしろ、正反対にお聴聞をすればするほど、仏法とはかけ離れた自分が見えてきますし、おかげさまと感謝の心を置き去りにして生活している自分に気づき、それでもごまかしながらなんとか日々の生活をおくる自分の姿が、くっきりと浮かび上がってきます。正直、しんどいことの方が多いです。
それでも、私はお聴聞を続けています。それは、日々の生活で自分が見ないようにしてきた「ものごと」に気づかされるからです。ときには、そのものごとが刃のように、私に向けられてきます。しかしその刃は、いつも私に向けられ続けていたのにも関わらず、私は見えないふりをして生きてきただけなのです。そういったことを、いまいちど自分自身で知る作業が、私にとってのお聴聞なのです。(ちなみに、私のお聴聞の方法が正しい、と主張したいのではありません。私にとってのお聴聞とはこうだ、というだけの話です。それぞれの人にそれぞれの人生があるように、それぞれの人にそれぞれの聴き方があるべきだと私は思っています。)
このコロナ禍で、お寺でのご法座の数は減っているようです。また、法話の時間を短縮して法座を行っているお寺も多いようです。いっけんすると、お聴聞の機会は減っているように思えるかもしれません。しかし、なにもお寺の法座だけがお聴聞の場ではありません。本を読むことも、友人と電話で話すことも、テレビを見ることも、音楽を聴くことも、ゲームをすることも、少し意識を変えてみると、「自分自身を知る」というお聴聞の場に変わっていけるのではないでしょうか。
参考文献
[2] 『岩波 新漢語辞典 第三版』(山口秋穂・武田晃 編 岩波書店 2014年)