1軒の家に2つのお仏壇
うちのお仏壇、よそのお仏壇
たまに門信徒の方から「家を出て嫁いだ身なので親のお仏壇を引き継げない(持って行けないから処分したい)」というお話をお聞きします。「今住んでいる家によその家(自分の実家)のお仏壇を持ち込むわけにはいかない」とか「1軒の家に2つのお仏壇が置いてあってもいいのか」という話に言い換えてもいいでしょう。
こういうときの私なりの考え方を述べさせていただきます。ただしここでは浄土真宗のお仏壇にのみ絞ってお話をします。他宗派ではまた考え方が違ってくるかもしれません。私は家族の中で1人1人が別々の信仰を持っていても、個別にお仏壇(他宗教の場合はそれに類するもの)を持っていても問題ないと思いますが。
お仏壇とは
まずお仏壇とは何かというお話ですが、この「真宗の本棚」では次のように書かせていただいています。
仏壇の中にある阿弥陀如来の絵像は、本来目に見えないものを表したものである。同じく、仏壇とは目に見えない浄土を形に表そうと試みたものである。
(真宗の本棚「仏壇」より)
阿弥陀さま(阿弥陀仏、阿弥陀如来)も、阿弥陀さまがおられるお浄土も私たちの目には見えないものです。これを形に表現したのがご本尊でありお仏壇です。その際にはお経に書かれたお浄土の風景も参考にされています。規模の違いはあれど、これはお仏壇もお寺の本堂も同じです。
客観的に見ればご本尊は単なる木像や掛け軸であり、お仏壇は豪華に飾られた箱かもしれません。ですが、これらを通して私たちは阿弥陀さまやお浄土を思い描きます。ですから、どこのお仏壇でもどこの本堂でも同じです。同じ一つの阿弥陀さまであり、一つのお浄土に向かって私たちは手を合わせていることになります。
私はこれをインターネットでWebサイトを見ているようなものだと捉えています。私たちは同じWebサイトをさまざまな端末から閲覧できます。その端末はパソコンだったりタブレットだったりスマートフォンだったりしますが、どの端末からでもほぼ同じ内容を見ることができます(別途スマートフォン用サイトを用意し、見せ方を変えることはありますが)。
複数のお仏壇
ですから1軒の家に複数のお仏壇が置かれていても構いません。どこのお仏壇からでも同じお浄土を見ることができ、阿弥陀さまに向かってお念仏を称えることができます。
余談ですがお寺にも本堂とは別にお仏壇を置いているところがあります。これを私たちはお内仏と呼んでいます。これはいわば住職一家にとっての「うちのお仏壇」です。ご先祖の法名を記した過去帳はそちらに置いています。本堂のご本尊に向かって手を合わせてもお内仏のご本尊に向かって手を合わせても同じことだと私は思います。
よそのお仏壇
また、「真宗の本棚」ではこのようにも書かせていただいています。
浄土真宗における仏壇とはご本尊として阿弥陀如来を安置するところである。
(真宗の本棚「仏壇」より)
実際にはお仏壇は亡くなられた方々を偲ぶために置かれ、そこには過去帳が置かれることが多いのですが、教義からいえばあくまでお仏壇の中心になるのは阿弥陀さまです。阿弥陀さまの側からみれば私たちは皆同じ衆生であり、どこの家に所属しているかは問題になりません。阿弥陀さまは「うちのお仏壇」と「よそのお仏壇」を区別されませんし、「これは誰のお仏壇だ」という見方もされません。同様に1つのお仏壇に別の家の過去帳が置かれていても問題ありません。
仏の問題ではなく、人の問題
しかし、現実問題としてよその家のお仏壇が持ち込まれたりよその家の過去帳が置いてあったりすると抵抗を感じる方は多いかもしれません。これは阿弥陀さまの問題ではなく私たちの問題です。お墓でもそういうことはありますね。「あの人と同じお墓には入りたくない」とか「もう家を出たのだから実家の墓に入ってもいいのだろうか」とか。
こういった問題は阿弥陀さまには関係ありませんから、私は自分たちの気持ちを優先すればいいと思います。お仏壇が1つでも2つでも、お骨がどこのお墓に納められていても阿弥陀さまの救いの妨げにはなりません。
迷ったら、お念仏しやすいように
親鸞聖人の師匠であり、浄土宗の宗祖である法然聖人の伝記に次のようなお言葉があります。
「現世の過ごし方としては、念仏がよく称えられるように過ごすのがよいのです。念仏の妨げになると思われることは、避けて行わないようにすべきであります。一所にいては念仏が申されなければ、巡礼など遊行して申すのがよいでしょう。遊行していては念仏が申されなければ、一所に留まって申せばよいでしょう。妻子らを捨てて聖となっては念仏が申されなければ、妻子らと一緒に暮らす在家になって申せばよいでしょう。在家では念仏が申されなければ、世を捨てて申せばよいでしょう。
(『現代語訳 法然上人行状絵図』第四十五巻 第二段 P.472 より)
この後にもいくつかの例を挙げ、お念仏を称えやすいようにしなさいと法然聖人は述べられています。私はこれを読んだときにシンプルでとてもわかりやすい基準だと思いました。これを基準に考えていくとさまざまな問題が整理されるように思います。お仏壇についてもこれに倣えばよいのではないでしょうか。