バズる
「バズる」という言葉がある。英語の「buzz」が語源であり、一つの事象に多くの人が注目すること、ぐらいの意味であろうか。もとは、インターネットなどで口コミを呼び起こす「バズマーケティング」という言葉から広がった、という説もある。
最近ではX(旧 Twitter)や TikTok などの SNS で、何かの拍子で注目を集めることを「バズる」と表現したりする。他にも、注目を集める映画やアニメなども「バズってる」と表現される。ときには、いわゆる「炎上」(批判的な意味で注目を集める)した案件なども、「バズる」と言われたりする。まぁ、良くも悪くも「注目を集める」といった意味で使われる言葉である。
ちなみに、私の SNS 歴はかなり長い。もはや、忘れ去られている mixi もやっていたし、ブログも書いていたので、30年近くといったところであろうか。音響カプラを受話器につなげてネットの掲示板に書き込んでいた世代には負けるが、まぁまぁ長い方であろう。しかし、ここ5年ほどは、ほとんどの SNS からは距離をおくようになった。なにも、SNS に疲れたわけではない。もう単純に私には合っていないのだ。反射的に、いらんことを書き込んでしまうのだ。そういう人は、もうこういう世界からは距離を置いたほうが身のためなのだ。
そんな私にとって、この「真宗の本棚」のように、事前にみんなで集まって原稿の読み合わせをしてから掲載されるという、一見アナログで手間のかかる方法は、心地いい。もしかしたら、ここの原稿を書いているから SNS から離れることができたのかもしれない。
しかしながら、時折、頭をもたげてくるのである。「バズりたい」という承認欲求の塊が、ふつふつと湧き上がってくるのである。そして、2024年10月、このサイトに掲載されている私のコラムが「バズった」。
それは「『チ。―地球の運動について―』を読んでみた。」というコラムで、じつは二年以上前に書き上げていた原稿である。二年以上も寝かしていた理由は、もうなんというか、「どうせ、話題になった作品だから、アニメ化すんじゃね?んじゃ、そのときに公開したらバズるんじゃね?」という、ただただ私の「バズりたい欲」からきた理由なのである。そして、それは当たってしまった。2024年12月末までで6200人ほどの人に読まれたようである。一時は Google で「ラファウ モデル」と検索したら、私のコラムが三番目に上がってきていたのである。公式サイトより上なのである。ちなみに、私のコラムには第一部の主人公である「ラファウ」のモデルの話など、いっさい出てこない。登場人物のモデルを探すために検索した人たちが、オチが「承元の法難」について書かれている私のコラムを読まされているのである。つくづく、これがXでなくて良かった。絶対に、「バズる」のではなく「炎上する」案件だっただろう。ごめんなさい、私のことが嫌いになっても、浄土真宗のことは嫌いにならないでください。
さて、私たちはコラムの他に、「仏教知識」の原稿も書いている。例えば、私なら『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「信巻」を冒頭から順番に解説していく原稿を担当している。そこで親鸞は、こんな言葉を書いていた。
まことに知んぬ。悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.266より)
現代語訳ではこうなる。
「いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。」
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.260より)
うーむ、確かにこの部分は念仏の衆生が「さとりを得る身となっていること」を論証した末に書かれており、その身を「恥ずべし、傷むべし」と続くのであるが、あまりにも赤裸々に心情を表わしており、読んでいて痛切にさえ感じる。まるで、自分の命を削ったかのような言葉だ。これでは、バズりも炎上もしないだろう。親鸞は短文投稿でインパクトをねらう X のような媒体ではなく、くどくどねちねちと自論を展開できる note やブログといった媒体のほうが合っているような気がする。それに、『教行信証』執筆の動機となった明恵(仏教知識「高弁(明恵)」参照)のアカウントを親鸞が見つけたりしたら大変である。一晩中でも粘着してリプライを送り続け、明恵の「クソリプ乙」という返信とともにブロックされてしまうだろう。どう考えても親鸞と X は相性が悪い。
では、蓮如ならどうであろうか。『御文章』を見てみよう。
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1191より)
こちらはもう、訳す必要のないほど明解である。しかも文字数は55文字。X の文字数制限の半分以下である。もし、蓮如が X を使っていたならば、『御文章』をバンバン投稿し、弟子たちに拡散させバズらせていたにちがいない。それほど、蓮如の歯切れのよい文体とXは相性が良いように思える。あと、YouTube なんかもいち早く取り入れ、開始一か月で収益化させてそう。どちらかというと、インパクト狙い、インプ数(インプレッション数。その投稿を見た人の数のこと。収益算定の基準になる)狙いの媒体は蓮如無双になるのではないだろうか。まぁ、蓮如は『御文章』自体を SNS のように浄土真宗を「バズらせる」ために使っていた節もあるので、インパクトのある言葉をわざわざ使用している、とも思えるのだが。
と、ここまで妄想していて、ふと気になって調べてみた。我が西本願寺教団(以下、宗派)の公式 YouTube の登録者数である。その数、1.4万人。ちなみに築地本願寺は3.04万人。宗派の倍以上の登録者数ではないか。しかも、築地本願寺には CM が入らないのだが、宗派のほうは CM が入っている。つまり、宗派の YouTube は収益化しようとしているのである。築地本願寺は他の事業で収益を上げているとはいえ、それにしても宗派はセコくないか?と感じてしまうのである。そして、収益化を目指すなら、コンテンツを充実させれば良いのに「寺院の会計と税務」という動画と「初めて学ぶ『歎異抄』講座」という動画が混在していて、欲しい情報にアクセスしにくい。だいたい、「寺院の会計と税務」という動画を見るためにCMを見なければならないのは、苦痛でさえある。このチャンネルは、素人目に見ても「バズらせる」気がない、としか思えない。
もちろん、何でもかんでも「バズらせる」ことが良いこととは思えない。しかし、今回私は「チ。」の人気でコラムをバズらせることができた。また、「真宗の本棚」を多くの人に見てもらえているのは仏教、浄土真宗というある意味「人気コンテンツ」のおかげであるだろう。ならば、宗派も親鸞のみ教えという同じ「人気コンテンツ」をいただいているのだから、そのみ教えの素晴らしさを積極的に広めるためにもっとできることがあるのではないだろうか。「日本最大の門信徒数」を標榜する宗派なら、もう少し、情報の発信に努めていただきたいものである。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)