『チ。―地球の運動について―』を読んでみた。

【ち ちきゅうのうんどうについて をよんでみた】

しんしゅう本棚ほんだな雑学サブカル担当のいま幾多きたです。今日はなにげなく第一巻を暇つぶしに購入したところハマってしまい、翌日には全巻を大人買いしてしまった『チ。―地球の運動について―』をご紹介したいと思います。先にことわっておきますが(逃げておきますが、ともいう)、私はいわゆる「マンガ読み」と言われるほど漫画の世界に精通しているわけではありません。確かに学生時代は、高橋葉介やますむらひろしを読み漁っていた時期もありました。でも、最近は「はやりもの」をチェックする程度の、ごく一般的ミーハーな読者のひとりです。

さて、そんな私でさえ、久しぶりにハマってしまった『チ。』とは、どんな作品なのでしょうか。まずはあらすじを追っていきましょう。

時代はのちに「暗黒時代」とも呼ばれる15世紀のヨーロッパ、場所は「P国」とされていますが、これは「ポーランド」をモデルにしているようです。P国はこっきょうを「C教正統せいとう」と定め、その教義に反する人たちを「たん」として、凄惨せいさん拷問ごうもんかいしゅうせま弾圧だんあつしていました。この「C教正統派」は「キリスト教正統派」と呼ばれる宗派をモデルにしているのでしょう。『チ。』は、改宗を迫られ拷問でボロボロになった市民と、「仕事」として拷問を加える「異端審問官しんもんかん」を見開きいっぱいに描いた絵から始まります。

ちなみに、この凄惨な拷問シーンから始まる展開を作者のうおは「サービスシーンのつもりだった。褒められるつもりだった。」とインタビューで語っています(コミスペ / 2021年5月3日 / https://media.comicspace.jp/archives/18037 )。青年誌で「サービスシーン」と言えば、私なんかは違うおっものぱいを期待してしまうのですが、やはり史上最年少の24歳で「手塚治虫マンガ大賞」を受賞した作者は違いますね。しかしながら、あとにつづく第一部の主人公の登場シーンとの対比という点からも、なかなか印象的な物語の幕開けとなっています。

その第一部の主人公は、12歳の少年ラファウです。彼は飛び級で大学進学が決定するほどの天才でした。そのせいなのか、彼は「世界、チョレ~~(ちょろい)」と大人や世間を舐めきっています。そのラファウがある「異端の学説の研究者」と出会うことから、『チ。』の物語が動き始めます。

当時、「C教正統派」は「この世界はすべて神が創造し、神の意思によって動いている」としていました。神は、この地球を世界の中心につくり、その周りを調和のとれた天空の世界でおおくしました。しかし、これは決して「人間」が神のつくった「崇高すうこうな存在」であるということではありません。反対に、人間はどこまでも未完成で罪深い存在であり、そのことを知らしめるために、調和のとれた神の世界を「仰ぎ見る」ことができるようにしたのです。つまり、世界の中心に「私たちの生きる世界=地球」があるのではなく、世界の底辺に「私たちの生きる世界=地球」を置き、罪深い未完成な世界でいのちを終えたあとは、調和のとれた幸せな天空の世界に生まれ変われるように祈り続ける、そのように神は世界をつくった、というわけです。いわゆる「天動説」ですね。

そのような教義に対して、異をとなえたのが異端とされた「地動説」でした。これは、「私たちの生きる世界=地球」が天空の世界と調和しながら、いっしょに太陽の周りを動いているという学説です。もちろん、今ではほとんどの人が「地球が動いている」ことを知っていますが、当時の「正統派」、つまり「権力者」の側から見れば、地動説は「神の存在」を否定する危険な思想でした。神の存在を否定すれば、権力の存在をも否定することになるわけですから。ただし、ここで描かれている地動説への強烈な弾圧は、史実からみるとかなりちょうされているようで、そのことは作者自身も認めています。『チ。』は決して史実を忠実に漫画化したものではなく、作者の伝えたいことを一種のファンタジーとして昇華した作品として読んだ方が良いでしょう。

さて、あらすじといいつつ、ほとんど物語には触れていないのですが、それはこの作品をできれば真っ白な状態で読んでほしい、と思うからなのです。私は一巻を最後まで読んだところで、「え?うそやろ?」とまんまと作者の術中にはまってしまいました。題名の『チ。』がカタカナで示されているのは、「チ」が読む人によって「知」「智」「血」「地」とさまざまな漢字をあてはめられるように、との作者の思いからなのでしょう。であるならば、よけいな先入観をなくして、ただ物語に巻き込まれていくことが、この作品の正しい読み方なのではないでしょうか。

最後に蛇足だそくを承知で私の感想を書いておきましょう。もし、どんなさいなネタバレも許せないという人がいれば、ここから先は読まないようにしてください。







私がこの作品を読んで真っ先に思いおこしたのは、親鸞しんらん法然ほうねんとの出会い、そして「承元じょうげん法難ほうなん」でした。『チ。』には第二部の主人公のひとりとして、下層階級出身で人々からみ嫌われる職業を生業なりわいとしたオクジーという人物が出てきます。彼は敬虔けいけんなC教正統派の信者でした。彼は、このいま生きている罪深い世界から逃れて、死後に清らかな神の国に生まれ変わることを日々願いながら、生きていました。いわば、死後の世界に希望を託すことで、現世での自分の過酷な境遇を受け入れてきたのです。その彼が、C教の司祭でありながら「地動説」の研究者でもあるバデーニと出会うことによって、「この世界はもっともっと美しく調和の取れた世界であるはずだ」ということに気づいていきます。そして、そのことを何とか後世に伝えたいと思い、文字の読み書きを習い、一冊の本をのこしました。この一冊の本が第三部のテーマとなっていきます。

思えば親鸞も、当時「正統派」とされ権力と結びつくことによって権勢を誇った「しょうどうもん」の教えでは自分は救われないと気づき、法然のもとで念仏の教えに出遇であって帰依きえしていかれました。このときのことを、親鸞は『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』の「しんかん」「じょ」に

しかるに禿とくしゃくらんけんにん辛酉かのとのとりれき雑行ぞうぎょうてて本願ほんがんす。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.472より)

克明こくに記しています、まさに、親鸞と法然、念仏との出遇いは、いままでの価値観を根底からくつがえす「パラダイムシフト」であり「コペルニクス的転回」だったのでしょう(この「パラダイムシフト」や「コペルニクス的転回」という言葉も地動説の発見からきています。)。

オクジーとバデーニは最後、これ以上の「地動説」の拡散を恐れた教会側から異端としてけい(死刑)に処されます。また、彼らの持つ資料はすべて燃やされました。それでもバデーニの一計によってオクジーの書いた書物は後世に託されていきます。

私には、このふたりが承元の法難で死罪となった安楽あんらくじゅうれんをはじめとする四名の方々と重なって読めました。オクジーとバデーニも自分にとっての真実を追求する中で「地動説」に出会い、「地動説」によって救われ、「地動説」によって殺されていきます。安楽や住蓮も、後世には「念仏の教えをまもるために死罪となった」として英雄視され、さまざまな脚色をされてきましたが、本当のところは「念仏の教えを護る」ためではなく「自分にとっての真実を追求した」ために死罪となっていったのではないでしょうか。

この『チ。』という漫画には、だれひとりとして英雄のように生きて死んでいく人物は登場しません。みんな、もがき苦しみ、現実の世界に絶望しながら生きている人々です。その、どこにでもいる人たちが「地動説」に出会い、ほんの少しの希望をもらい、そしてこの世界の見え方が少しずつ少しずつ変わっていく。その過程をていねいに描いていく漫画であると読みました。信念を持って「地動説」を護り、権力の弾圧にも負けず真実を追求し、最期には「地動説」が勝利をつかむ、と、そういう漫画ではありません(私は最初、そう・・いう・・漫画だと思っていたので、第一巻の最後で驚いたのです)。真実に気づいてしまったがために弾圧を受け、ときには保身に走り、仲間を裏切る。そして、その真実が後世に伝わることを望みながらも、権力に敗れて死んでいく。英雄とは程遠い人々が、権力に圧し潰されながらも、その人たちの想いが次の世代に少しずつ形を変えながらつながっていく、いわば、「敗者たちの大河ドラマ」ともいうべき作品でした。作者の魚豊はまだ27歳。これからどんな物語をつむぎ出してくれるのか、とても楽しみです。

参考文献

[1] 『チ。―地球の運動について―』全8集(魚豊 小学館 2020-2022年)
[2] 『【インタビュー】『チ。ー地球の運動についてー』魚豊「大地のチ、血液のチ、知識のチ。その3つが渾然一体となっているのがこの作品。」(2021年5月3日)』 (https://media.comicspace.jp/archives/18037) (かーずSP コミスペ 2021年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)