第一回「真宗の本棚」寄席
皆様、こんにちは。第一回の「真宗の本棚」寄席の開演時間になりました。席亭はわたくし、「真宗の本棚」雑学担当の今幾多です。少しのあいだ、おつきあい下さい。
皆様の中には、仏教のサイトであるこの「真宗の本棚」で、なぜ寄席が開かれるのか?と不思議に思われる方もおられるでしょう。じつは、仏教と落語は深い関係があります。例えば、近世落語の元ネタになったとも言われる江戸時代の書物『醒睡笑』を書いた安楽庵策伝(1554~1642)。この人は、浄土宗西山深草派の法主を勤めたお坊さんです。この『醒睡笑』、本の名前がいいじゃないですか。「睡」る人の目を「醒」まさせるために「笑」わす。いまのお説教でも、このテクニックを使っている人、たくさんいますよね?(もちろん、お説教でも落語でも「笑わす」ばかりでは困ったものなのですが)。
そんなこともあってか、落語には「仏教」や「寺」、「僧侶」が出てくるお話が、ずいぶんとあります。ここでは、そんなお話を三席、ご紹介していこうと思います。
一席目「転失気」
さて、一席目は前座噺の定番である「転失気」です。まずは桂文三師匠の一席をお聴き下さい。
病気になったお坊さんが医者に診てもらいに行きました。すると医者から「てんしきはありますか?」と訊ねられますが、このお坊さん、「てんしき」が何かわからない。しかし、日頃から偉そうにしていたのでしょうか、素直に「知らない」と言えずに、知ったかぶりをして帰ってきてしまった。そこで、弟子の小僧さんに「てんしきが何か、調べてこい」と、街へ行かせます。いろいろと聞きまわって、「てんしき」がおならのことだとわかった小僧さん。でも、日頃から人使いの荒いお坊さんに少しいたずらをしてやろうと、「てんしきとは盃のことです」とウソの報告をしました。それをすっかり信じ込んだお坊さん、さっそく医者のもとに、ご自慢の盃を桐の箱に入れて持っていきます。医者に向かって、「てんしきを持ってきました」と意気揚々と話すお坊さんに・・・。
いかがでしょうか?知ったかぶりをしたあげく、自分で調べずに人に調べさせて、ドツボにはまっていく。なかなか、身につまされる話です。
二席目「淀川」
つづいて、二席目に参りましょう。二席目は少し珍しいお話で、上方落語では「淀川」、江戸落語では「後生鰻」と呼ばれているお話です。ただ、上方ではお坊さんが主人公なのですが、江戸落語では熱心な浄土真宗の門徒さんが主人公に変わっています。私個人としては、上方の方がサゲ(オチ)のどぎつさが際立って好きなのですが、残念ながら映像は無いようです。ここでは、桂文鹿師匠が口演された「淀川」を、世紀末亭さんという方が文字起こししたものをご紹介いたします。
http://kamigata.fan.coocan.jp/kamigata/rakug372.htm
大阪に「淀川」と言う魚屋さんがありました。この店の売りは、生きた魚を客の目の前でさばいて、そのまま売るという、いまで言うところの「実演販売」みたいなことをしていたんですね。その日も、生きた鯉をまな板の上でさばこうとしていました。そこに「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏を称えながら通りかかったお坊さん。「殺生は許さぬ」とその鯉を買い取って、川に逃がしてやりました。次の日も店の前を通りかかると、今度は鰻がさばかれようとしている。お坊さん、法外な値段でその鰻を引き取ると、またもや川の中にドボンと逃がしてやる。それから数日後、またもや店の前を通ろうとするお坊さん。二回の商いで味をしめた淀川の店主は、今日もお坊さんに高値で売りつけてやろうとしますが、その日に限ってシケで魚が入ってこなかった。一計を思いついた店主は、お坊さんに見えるようにまな板の上に・・・。
私が数年前まで本堂で開いていた寄席で、文鹿師匠が「淀川」をかけて下さったことがあります。そのときに、私はこの話をはじめて聴きました。そして、あまりに衝撃的なサゲにしばらく放心状態になりました。楽屋で文鹿師匠に「ひとつの価値観を信じ込んでしまうと、とんでもない間違いをしてしまう。ある意味、宗教の持つ恐ろしさを教えてもらったような気がします。」と感想を伝えますと、「してやったり」というような表情で「ニヤリ」と笑っておられました。ちなみにこの落語、東京では戦時中に53演目が指定された「禁演落語」のひとつでもあります。
三席目「八五郎坊主」
それでは、今日の最後のお話、三席目は「八五郎坊主」です。一席目、二席目に出てくるお坊さんは尊大で知ったかぶりをしたり、いっけん有り難そうにみえても、じつは融通が効かない困った人だったりと、なるほど江戸時代の人から見れば「坊さん」という存在は、こんな風にみえていたんだな・・・と思うと同時に、じつは今もそんなに変わらないんじゃないかと思ってみたりもしました。
でも、この八五郎坊主に出てくるお坊さんは、少し違います。なにせ、この八五郎坊主と言うお話は、釈尊の伝記のあるエピソードを元に作られているのですから。いわば、一席目、二席目のお坊さんは「現実のお坊さん」、このお話に出てくるお坊さんは「理想のお坊さん」、といったところでしょうか。
お聴きいただくのは、やはりこの人、二代目桂枝雀師匠の「八五郎坊主」です。
「つまらんやつは坊主になれ」という言葉を真に受けた八五郎。ご隠居さんの紹介で下寺町のズクネン寺の門をたたきます。出てきた住職は、やることなすことむちゃくちゃな八五郎を快く受け入れ、得度(僧侶になる儀式)をさせて、「法春」という名前を与えます。しかし、八五郎はどうしても、その名前を覚えることができません。住職はそんな八五郎に釈尊の弟子である周利槃特の話(コラム「ミョウガと愚者」を参照)を聞かせて、名前を書いた紙を持たせてあげます。八五郎はご隠居さんに報告しようと、喜び勇んで街に繰り出し、ばったりと友達に出会います。友達から坊さんとしての名前を訊かれた八五郎は・・・。
落語の中にも出てくる通り、この話は釈尊とその弟子周利槃特のエピソードを元に作られています。江戸時代の人にとって(そして、たぶん今現在の人にとっても)、「寺」という場所はどんな人も快く受け入れてくれる場所であってほしい、という願望が、この話から強く感じられるように、私には思えます。
以上、三席で今回の「真宗の本棚」寄席はお開きです。最後までありがと・・・・え?三席では足りないですって?
そんなあなたは、ぜひお近くで開かれている寄席や落語会に足を運んで、生の落語に触れてみてください。寄席も本棚も郷土(強度)が一番です。
おあとがよろしいようで。