蝗にはなるまい

【いなごにはなるまい】

いなごにはなるまい。こう言ってしまうと精一杯せいいっぱいに生きている「イナゴ」には失礼であるが、あくまでもたとえである。この喩えは、日本で天台宗てんだいしゅうひらいた最澄さいちょう撰述せんじゅつと伝えられる『末法まっぽう灯明とうみょう』にる。

『仁王』等を推するに、僧統を拝するをもって、破僧の俗となす。彼の『大集』等には、無戒を称してもって済世の宝となす。あに破国のいなごをとどめ、かえって保家の宝を棄てんや。

(『真宗学シリーズ8 真宗聖典学③ 教行証文類』P.362引用)

これは、『仁王にんのうきょう』や『だいじっきょう』を根拠に、当時の南都なんと仏教ぶっきょうに対して「僧統そうとうはいする」ことへの批判である。僧統とは朝廷ちょうてい(国家)から与えられるさまざまな名誉めいよ官職かんしょくのことで、教団きょうだん宗派しゅうは)を統率とうそつさせる制度をあらわす。当時の仏教が国家仏教といわれる所以ゆえんである。そして、奈良の興福寺こうふくじ東大寺とうだいじ僧侶そうりょたちが朝廷からのこれらの任免にんめんを期待して、天皇てんのう上皇じょうこうることにより、国家に都合つごうの良い方向へ仏法ぶっぽう(教え)をゆがめていったことへの警告けいこくでもある。ここで示される「僧侶が国家をまもる」という「保家ほうけの宝」に私は同意できないが、最澄にとって「国家を護る」ことはそのまま「仏法を護る」ことに直結していたのかも知れない。名聞みょうもんよう(名利、名誉欲と財産欲)のためにみのりある仏法を利用する僧侶を、稲穂いなほくすイナゴになぞらえているのである。しかし、この批判は当時の南都仏教にだけ当てはまるものではない。当時から現在に至るまで、蝗があさるのは教団や社会での名誉、地位、かねである。そのてには、これらがまるで僧侶の本分ほんぶんであり、仏道ぶつどうまっとうしているかのように振舞ふるまう。このような僧侶すべてへの批判である。

名聞利養にすがる僧侶は、「仏法」をてて「民衆みんしゅう」をてる。そして国家・教団に都合の良い「教え」を生み出していく。

浄土真宗の宗祖親鸞は、主著である『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』「信文類しんもんるい」において、

いま、まことにることができた。かなしいことに、愚禿ぐとく親鸞しんらんは、愛欲あいよくひろうみしずみ、名利みょうりふかやままよって、正定聚しょうじょうじゅはいっていることをよろこばず、真実しんじつのさとりにちかづくことをたのしいともおもわない。はずかしく、なげかわしいことである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.260引用)

として、名聞利養にすがる可能性がある自身を自覚じかくして、そのことをじている。

親鸞は自身のことをつうじて、誰しもが名聞利養にすがる可能性があることを示しているのではないだろうか。つまり私もその例外ではない。もちろん、あやまちはおかさないにしたことはないが、犯してしまった時にその人の真価しんかわれてくる。初期しょき仏教教団では、かりに過ちを犯したとしても慚愧ざんぎすることにより、そのつみゆるされてきた。その一方で、その罪をかくす「覆蔵ふくぞう」をもっとも重い罪とする。(仏教知識「慚愧」参照)

名聞利養にすがったものが、その罪悪性ざいあくせい告発こくはつされたさい常套句じょうとうくは、「実はあのとき・・・」「私はそのつもりがなかったが・・・」「あの人に言われて仕方なしに・・・」である。このような言いのがれはまさに事実を隠蔽いんぺいする「覆蔵」という重い罪で、仏教徒ぶっきょうととして許されはしない。

仏教徒とは、不断ふだん選択せんたくなやみ、失敗しながらも「自主じしゅ」「自律じりつ」で生きる人びとである。

やはり、蝗にはなるまい。もしも私が蝗のすがたに変わったときには、同朋なかまには告発をしてほしい。「『蝗にはなるまい』と言ったじゃないか!」と。

蝗になれども、その時はせめて「覆蔵」の罪を重ねぬように慚愧をしたい。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『真宗学シリーズ8 真宗聖典学③ 教行証文類』(信楽峻麿 法蔵館 2013年)

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