「ジェンダーの視点」~「仏教とジェンダー」を考える~①

【じぇんだーのしてん ぶっきょうとじぇんだーをかんがえる 01】

最近、まとまった時間が取れるようになったので、今まで購入したままで読んでいなかった本(積んどく、というそうです)を読むようにしています。その中で、なにかがチクリと私の心に引っかかって、何度か読み返した一冊の本がありました。みなもとじゅん氏が書いた「仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー」(あけび書房/2020)という本です。

この本は三つの部分で構成されています。一番目は、著者の源淳子氏がじっさいに真宗大谷派から受けた事件を詳細に語っています。二番目は事件のもととなった「仏教(とくに浄土真宗)の経典にみられる女性差別」の指摘です。三番目は、親鸞の思想と著者自身のかかわり、その理解が語られます。

さて、最初に書いたように、この本を読んだ時「なにかがチクリと私の心に引っかか」りました。しかし、その「なにか」がわかりません。何度か読み返してみても、その「なにか」は私の心に残りつづけました。一応、大学時代に講義で「フェミニズム」や「ジェンダー」という言葉を少しは学んでいました。しかし、私の大学時代なんて30年も前です。「ジェンダー」や「フェミニズム」の概念も進化し、変わってきていることでしょう。そこで、私の心の中に引っかかったなにかを探すために、まず「ジェンダー」という考え方についてもう一度学び直すことにしました。

とはいえ、ここまで読んでくださった方の中にも、「ジェンダー」という言葉についてよくわからない方々もおられると思います。もしかしたら、「そんな言葉、聞いたことない」という方もおられるかもしれません。このコラムは、私が読んだ本を通して、「仏教とジェンダー」について考えていこうということがテーマです。一度、「ジェンダー」という言葉について、一緒におさらいをしておいた方が良いでしょう。私が学び直した「知らないと恥ずかしいジェンダー入門」(加藤秀一/朝日新聞出版/2013)をテキストにしましょう。この本は、じっさいにはじめて「ジェンダー」を学ぶ学生のために、わかりやすく講義形式で書かれた本です。もしお時間のある方は、直接この本を手に取って、学生に戻った気分でお読みいただけたら、と思います。

ジェンダーとは

まず、ジェンダーと言う言葉がどのような意味で使われるのか、加藤氏はこの本の中で大きく四つに分けて示しています。

  • ①性別そのもの
  • ②自分の性別が何かという意識(ジェンダー・アイデンティティ、性自認)
  • ③社会的につくられた男女差(ジェンダー差、性差)
  • ④社会的につくられた男女別の役割(ジェンダー役割、性役割)

 そして

「日本語の「性」や「性別」に関わる現象で、何らかの意味で<社会的>なものをジェンダーと呼ぶ」 (前掲書P.20より)

とまとめています。

つまり、生物学的な「男女の性差」そのもの(この生物学的な性差さえも、じつは「社会的」につくられていく、という事例もこの本には書かれています)を問題にすることがジェンダーの問題なのではなく、その生物学的な性差が社会と関わったときに、どのように「られて」いくのか、がジェンダーの問題(視点)である、ということです。このことを加藤氏は、社会が

「どのようなやり方で男女の区別を<理由>づけしようとしているのか」 (前掲書P.52より)

とも書いています。本来、きわめて個人的な認識であるはずの男女の区別を、「男だから~」「女だから~」と社会が理由づけをして決定していく。この問題点を「ジェンダーの視点」はあぶりだしていきます。

「ジェンダー」と「セクシュアリティ」

しかし、ここで混同されやすいのは、いわゆるLGBTQと呼ばれる性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)の方々が抱える問題です。基本的には、ジェンダーという言葉と、LGBTQに関する諸問題については分けて考える必要があります。そのかわりに、セクシュアル・マイノリティに対しては、より個人的な性的指向をあらわす「セクシュアリティ」という言葉が使われます。これは、ジェンダーという言葉がもつ「社会的につくられた性差」という概念と、セクシュアリティという言葉がもつ「個人的な性的指向」が混同されることを防ぐためです。だからこそ、「ジェンダー・マイノリティ」という言葉ではなく、「セクシュアル・マイノリティ」という言葉が使われています(第六章「セクシャリティはジェンダーではない」P.113- 参照)。

2021年5月、自民党議員から象徴的な発言が相次いだことが報道されました。LGBTQなど性的少数者をめぐる「理解増進」(法案の名称が「差別禁止」ではないことも問題ですが・・・)法案を議論した自民党会合で、野党の要求によって法案の目的や基本理念に「差別は許されない」と加える修正をしたことなどに異論が相次ぎ、会合での了承が見送られました。その議論の中で「生物学的に自然に備わっている『種の保存』にあらがってやっている感じだ」(やな和生かずお衆議院議員)、「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、ばかげたことはいろいろ起きている」(山谷えり子参議院議員)、「差別があったら訴訟となれば社会が壊れる」(西田昌司参議院議員)などの差別的な発言が相次いだというのです。そして、この法案は会期末であることを理由に第204回通常国会に提出されることはありませんでした(肩書はすべて当時のものを使用)。

ここに、無意識に(もしかしたら「意識的に」かもしれません)ジェンダーとセクシュアリティを混同する「恐ろしさ」が現れています。本来、個人の持つ性的指向への「理解増進」による差別解消と、「種の保存」「女子トイレ」「訴訟で社会が壊れる」といった社会的なことは関係がありません。前者の法案はセクシュアリティの視点から「理解増進」(本来は「差別解消」)されるべき問題であることに対して、後者の発言はジェンダーの視点から批判をされるべきです。この発言をした自民党議員たちは「個人的なセクシュアリティを利用して社会的な不安を煽っている」に過ぎません。もちろん、こういった言動に対して、ジェンダーの視点はとても有効に働くことができます(ちなみに、こういった反動的な言動をおおやけに行うことをジェンダー論では「バックラッシュ」と言います)。

さて、まったく仏教に触れることができないままにすうが尽きてしまいました。次回は最初にげた源淳子氏の著作と『現代日本の仏教と女性―文化の越境とジェンダー』(那須英勝 本多彩 碧海寿広 編集/法蔵館/2019)の二冊をご紹介したいと思います。

参考文献

[1] 『知らないと恥ずかしいジェンダー入門』(加藤秀一 朝日新聞出版 2013年)
[2] 『仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー』(源淳子 あけび書房 2020年)
[3] 『妻帯仏教の民族誌―ジェンダー宗教学からのアプローチ』(川橋範子 人文書院 2012年)
[4] 『「種の保存にあらがう」 自民議員のLGBT差別相次ぐ(朝日新聞DIGITAL/2021年5月21日配信)』(朝日新聞DIGITAL 2021年)

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