雅楽

【ががく】

六世紀なかば頃、中国、朝鮮半島を経て伝来された日本にとって初めての音楽である。仏教において礼拝らいはい音楽として取り入れられ、現在まで皇室の保護のもと伝承でんしょうされる。語義は雅正がしょうの楽。英語で表すとより分かりやすいものであるが、ANCIENT COURT MUSIC とつづる。古来の宮廷きゅうてい音楽という意になる。仏教において雅楽の目的は清らかな音色、音楽をぶつ奉納ほうのうするという意になる。

雅楽の形として日本古来の神楽かぐら笛、和琴わごとの他に外来から来たしょう篳篥ひちりき龍笛りゅうてきといった、吹物ふきものであるかん楽器がっき三管さんかんに、弾物ひきものであるそう(こと)、琵琶びわ、和琴のげん楽器がっき打物うちものである鞨鼓かっこ太鼓たいこ鉦鼓しょうこなどから形成される。

三管はそれぞれ、笙が「天から差し込む光」に、龍笛が「天と地の間を縦横無尽に駆け巡る龍」に、篳篥が「地上にこだまする人々の声」にたとえられる。

上記の説明では難しい表現であるので、現代の楽器で例えるなら笙はオルガンの様な和音を生み出し(フリーリード)、篳篥はベースライン(ダブルリード)、龍笛はボーカルラインにあたり(ノンリード)、こと琵琶びわは余白を盛り立て、鞨鼓はスネアドラム、太鼓はバスドラム、鉦鼓はゴングという響きである。また奏者を楽人がくにんと呼び、踊る者を舞人まいびとという。

一般的に心地の良い音楽という認識もあるが、雅楽や聲明しょうみょうは現代音楽の440ヘルツではなく430ヘルツで形成される。即ち、音自体が低く設定される事からも影響が伺える。以下聞き比べてみると10Hzの微妙な音域の差が確認出来る。

西本願寺において雅楽は古くから用いられた。幕末から明治に移行する時代に、京都から東京への遷都せんとともない、1872年(明治5)に楽人が宮内くないちょうに移った事や、廃仏はいぶつ毀釈きしゃくの風潮から四天王寺楽団がくだんは廃絶の流れにおちいった。舞楽ぶがく声明しょうみょうたしなんだ本願寺第21代明如みょうにょはそれを危惧し、四天王寺精霊しょうりょういん慶祝けいしゅくの為にいし舞台ぶたいの舞楽法要を奉納した。明如は音律に通じた人で、顕密けんみつ両教りょうきょう法式ほっしき儀礼にも精通し、当時宮内省雅楽課二等伶人れいじんであった東儀とうぎ季凞すえながに師事し雅楽を極めていた。篳篥と箏に堪能たんのうであったといわれる。平安時代以来、舞楽ぶがく四箇しか法要を唯一遵守じゅんしゅした四天王寺精霊しょうりょうが断絶の危機である事を知り尽力した。また1911年(明治44)親鸞聖人六百五十回だい遠忌おんきに舞楽四箇しか法要ほうようを導入した。そのためにも精霊会を再興することで模範、法式ほっしき研究の貴重な資料を得る必要があった。

現代においても毎年1月9日から1月16日に本願寺でつとめる正忌しょうき報恩講での日中にっちゅう法要、逮夜たいや法要で雅楽がかなでられ、多いときには各管50人以上総勢150人以上の楽人が合奏するのは圧巻あっかんであり、この場所でしか聞けないであろう。また毎年5月21日の宗祖降誕ごうたんは雅楽献納けんのうかいを本願寺内で催し、これは本願寺派僧籍の有無に関わらず、誰でも奏者として参加できる。昨年(2018年)で54回目を迎えた。このように本願寺教団は今日まで雅楽において密接な関係である。

参考文献

[1] 『音楽大辞典2 カ〜サ』(平凡社 1982年)
[2] 『雅亮会百年史。増補改訂版(創立百二十年を超えて)』(雅亮会 2008年)
[3] 『仏教と雅楽』(小野巧龍 法蔵館 2013年)

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