塵を払い垢を除かん

【ちりをはらいあかをのぞかん】

近頃、私の朝は早い。午前六時のアラームが鳴る少し前、年のせいか、勝手に目がめるようになってきた。まわりの人を起こさぬようにそっとアラームを切り、細心の注意を払って布団ふとんから抜け出すと、キッチンに行ってお湯をかす。むかしは新聞の朝刊でニュースや天気予報を確認していたが、今ではタブレットの電源を入れれば、瞬時しゅんじに情報が入ってくる。熱いブラックコーヒーをれて、ゆっくりと飲みながら情報の海を泳ぎだす。かたわらでは、いっしょに起きてきたネコがけだるそうにえさをねだってくる。さぁ、いつもの一日を今日も続けよう。

と、まるでタワマンに住むエリートサラリーマンのような書き出しで始めてしまったが、もちろん「朝が早い」ということ以外は脚色きゃくしょく(ウソ、ともいう)である。じっさいは、おなかかせたネコがようしゃなく私の顔面をネコパンチ連打で起こしてくるのである。起きるときに物音を立てて隣の娘を起こしてしまうと、不機嫌ふきげんな顔と声で「お父さん、うっさい」とき捨てられてしまうのである。本当の私の朝は孤独なのである。

なぜ、この季節は早起きなのかと言うと、境内けいだいにある樹木の落ち葉が前の道路に散乱し、それを掃除しなければならないから、という「お寺あるある」のおかげなのだ。ウチのお寺の場合は、まず桜の葉が落ち始める。そのあと、いちょう、もみじと順に落葉らくようが始まり、掃除シーズンは十一月終わりから年明けの一月終わりまで続く。落ち葉が多いときには、一時間以上ほうきを握っているときもある。

「掃除」という行為はあんがいひまなものだ。目の前の落ち葉をちりとりに入れ、それがまればゴミ袋に入れに行く。慣れるとほとんど、頭を使うことはない。体はいそがしく動いているが、頭の中はかなり暇になるのだ。そういうとき、釈尊しゃくそんの十大弟子のひとりであるしゅはんどくのエピソードが頭をよぎることがある(コラム「ミョウガと愚者」参照)。

このコラムに書かれているように、周梨槃特は物覚えが悪いゆえにまわりの者からバカにされ、教団を去ろうとしていた。そのとき、釈尊は白い布を渡し、他のしゅっしゃ履物はきものきよめるように言われた。ここで重要なことは、釈尊は彼に対して決して「さとりをひらくために」とも「他人の役に立つために」とも言わずに、ただ「塵を払い垢を除かん」という一文と白い布を渡して「掃除」をすすめているだけなのだ。受け取る周梨槃特も、この行為を何のために誰のために行うのかを考えることもなく、そのままを受け取って「掃除」を始めている。もちろん、仏教教団においてもっとも重要なことは「悟りをひらく」ことであり、釈尊も周梨槃特に悟りをひらかせようと、掃除をすすめたのであろう。しかし、周梨槃特は自分の名前さえ覚えることができない。また、彼の素直な性格を釈尊は見抜いていたのかも知れない。いわば、周梨槃特の「特性」を理解した上で、釈尊は彼に対して慈悲の心のもとに「配慮」をした。そして、じっさいに周梨槃特にとって、他人の履物を浄めることに何の理由もいらなかった。ただただ、そこにある「塵を払い垢を除かん」がために掃除を続け、ついには悟りをひらいた。

ちなみに、私が掃除をする理由は「近所の人に怒られないため」が一番である。次に、「朝早くに外を掃除していると近所の人からほめてもらえる」という理由がくる。最近はそれに「きれいになると気持ちいい」という理由が入ってきた。そのことを娘に話してみると、「50歳にして掃除の楽しさにやっと目覚めたおじさん」というありがたい言葉を頂いた。けっこう気に入っている。そう思うと、毎日掃除を続けながら誰彼となく道行く人に「おでかけですか?」と声をかけ続けるレレレのおじさん(『天才バカボン』、赤塚不二夫)は、私なんかよりもよほど周梨槃特に近い人だったのだろう。

私も一度、周梨槃特にならって「塵を払い垢を除かん」とだけ、心の中でとなえながら掃除をしたことがある。そうすると、確かにほかのことを考えず、よけいな妄想もせず掃除だけに集中して終えることができた。しかし、疲れるのである。私には何の理由もなく掃除を行うということは、いつも以上に疲れるのである。しかも、掃除を終えてきれいになった道路を見た時に、「よし、これで誰も文句もんくは言わんやろ」と思ってしまったのである。ただただ掃除だけを続け悟りをひらいた周梨槃特のすごさを、あらためて思い知る結果となった。

私たちは、ついつい「自分のために」とか「他人のために」とか「まわりからよく思われたい」という理由で、安易に「他人のためになる」ことを始めてしまう。しかし、理由はどうであれ、始めてしまったことは続けていかなければならない。その「継続性」が担保されないのであれば、私は安易に始めない方がよい、とさえ思う。がっに始めて身勝手に終えてしまうと、かえって傷つく人がでてくることになりかねないのだから。

私たちの生きる世界から「塵を払い垢を除かん」ことはとても大切なことである。しかし、そのために行動を起こしたのであれば、続けていかなければ意味がない。それは、出家者の履物を浄めるように、落ち葉を掃き浄めるように、終わりが見えないかもしれない。それでも、続けていかなければならない。それでも、いつもの日常の中で続ける努力を怠ってはいけない。

さぁ、いつもの一日を今日も続けよう。