ボランティア

【ぼらんてぃあ】

「COMING KOBE」(カミコベ)という音楽フェスティバル(フェス)がある。今年(2024年)で20周年を迎える関西の老舗しにせフェスのひとつである。5年前に私はひょんなことから、このフェスのスタッフとして関わることになった。このフェスの特徴は、全員が「ボランティア」としてたずさわる、というところだ。現場で動くスタッフも全員がボランティアなら、出演するアーティストもボランティア、つまり出演料無し、交通費は自腹でやってくる。そして、参加する観客もある意味ボランティアなのだ。このフェスは無料で参加できてしまうのである。もちろん、当日ふらりとやってきて参加できるというものではなく、いわゆるプレイガイドでチケットを獲得しなければならない。運営側もだいたいの観客数を把握しなければ、安全に運営できないからだ。しかし、そのチケット代が無料なのである。まぁ、優先入場券(一時間早く入れる)やらグッズ付きの入場券はさすがにお金を取るが、入場券の大半を占める「一般入場券」が無料というフェスは、私はこの「カミコベ」以外では知らない。

そして、もうひとつの特徴は、会場のいたるところに設置されている募金箱の存在だ。いや、設置されているだけではない。「カミコベ」には近隣の大学生たちが授業の一環として「学生ボランティア」で参加しているのだが、彼らが募金箱を持って四六時中、会場内を練り歩くのだ。無料で観客を入れておいて、会場内でカンパをつのる。ある意味、良くできた戦略である。そして、集められた募金は、最低限の運営費(ステージ設置、音響設備などはどうしてもプロの手を借りなければならない)を除いて、全額がさまざまな寄付金となる。ここまで読んでいただくと、もうおわかりだろう。このフェスは、1994年に起きた「阪神淡路大震災」が契機けいきとなって、開催されるようになった。震災から10年が経った2004年に初めての「カミコベ」が開催されている。キャッチフレーズは「神戸からの恩返し」。あの阪神淡路大震災で全国から集まった支援の恩返しのために、神戸の小さなライブハウスのオーナーがたったひとりで始めたのが、このフェスなのである。

さて、ここでボランティアスタッフがどんなことをするのか簡単に書いておこう。フェスのスタッフと言えば、なにかチャラチャラして音楽を聞いて暴れて本部で酒飲んでナンパして、みたいな間違ったイメージを抱かれても困る。じっさいは、とてつもなく地味なのだ。まず、前日に会場に入りゴミ箱を延々えんえんと作り続ける。そのあと、「神戸・東北・能登をつなぐ」と題された写真展の設営。設営と言っても、立派な会場があるわけではない。野外に写真のパネルを固定するための柵をDIYで組み立てるのだ。素人が作るので、何度も足りない部品が出てくる。そのたびにホームセンターと会場の間を往復する。フェスの当日はゴミ集めだ。このフェスは「ゴミゼロ」をひょうぼうしているので、出たゴミはすべてスタッフが回収する。ゴミ袋がいっぱいになると臨時のゴミ集積場まで持っていく。雨が降ると、濡れた写真展のパネルを拭いていく。そのあいまにビールや飲み物の補充をする。最後のアーティストの演奏が始まると、雨の中で写真展の撤収。演奏が終わると、退出するお客さんの誘導とゴミ集め。そして、最後のお客さんを送り出して入場口の閉鎖をしたときに、こう気づくのだ。「おれ、フェスに来たのにぜんぜん音楽を聞いてないやん・・・」と。はっきり言おう。フェスはスタッフで参加するより客で参加するほうが楽しい。絶対に楽しい。

まぁ、それでもお客さんが楽しそうにしてくれたり、苦労して設置した写真をじっと見つめてくれたりする様子を見ていると、うれしいものである。不思議なもので、また来年もお手伝いしたいな、という気持ちになってしまうのである。きっと、私は来年も同じ仲間で「神戸からの恩返し」に参加しているのだろう。

・・・って、ここで終わってどうする。これでは、50歳を過ぎたおじさんがフェスのスタッフをして浮かれているだけじゃないか。仏教の話をしろ。という突っ込みも聞こえてきそうだが、もちろん本題は私の活動報告ではない。

少し前に、東北地方でボランティア活動をしている先輩僧侶から、こういう話をきいたことがある。じょうしんしゅうの僧侶がボランティアをしていると、「ボランティアって『自力じりき』の活動ですよね」と同じ真宗の僧侶から批判されるというのだ。この場合の「自力」とは仏教的な「自力・他力たりき」といった意味であろう。ということは、「ボランティア=無償むしょうの奉仕活動は自力の僧侶の活動であり、他力の僧侶たる真宗僧侶はボランティアはすべきではない」という批判なのだ。「チョット、ナニイッテルカ、ワカンナイ」で済ませてしまっても良いのだが、この批判には真宗の僧侶がおちいりがちな、ある種の傲慢ごうまんさが見え隠れしているように私には思える。

確かに、真宗の僧侶が「私がボランティアをすることによって得たどくをもってじょうおうじょうを目指します。」といった主張をしているのであれば、「自力のボランティア」という批判はまとる。しかし、私も含めてボランティアの活動をしている真宗の僧侶の中で、そういった主張をしている人を私は知らない。たぶん、その批判をしている人は「ボランティア=善意の活動=自力」、つまり自分が功徳を積んで浄土往生をするということと、自分の力で困っている人を助けるということを混同しているのだろう。しかし、これはいささか乱暴すぎる。現場で活動をしている人たちは、僧侶に限らず「好き」でやっているだけの人が大多数なのだ。つまり、そういった批判をする僧侶は、自分勝手なボランティアのイメージだけで批判をしているのだ、現場を知ろうともせずに。そういう僧侶に私はいてみたい。あなたは「カミコベ」の現場で自腹で演奏しているアーティストにも同じことが言えますか、と。「好きでやっているんだ、ほっとけ」と言われるだけであろう。けっきょく、「ボランティア=自力」と批判をする人たちは「社会」というもの向き合っていないだけのように私には思える。阿弥陀あみだ如来にょらいが浄土を建8こん)りゅうしなければならなかったのは、私たちの住む社会が浄土とはまったくちがう世界だから、ではなかったのか。「社会」に向き合えない者は「浄土」とも向き合えない。

しかし、だからといって、ボランティアをしている僧侶が「ボランティア=慈悲じひ」と説明してしまうのも、かなりあぶなっかしい。「私が持っていると思い込む慈悲など、ちっぽけでまんに満ちたものに過ぎない」ということが知らされていくことが「他力」なのだから。これはかいを込めて書くのだが、ボランティアをする僧侶の側にもやはり「謙虚けんきょさ」は必要であろう。「俺のやっているボランティアの方が勝れている」といった傲慢さが少しでもけて見えると、また余計よけいな批判を生み出しかねない。

そういった意味でも、私にとっては「ボランティア」という言葉よりも「お手伝い」という言葉のほうがしっくりとくる。「私たちと同じ世界に存在する人々が少しでも笑顔になる」ための「お手伝い」。私がゴミを集めることによって、回りまわって誰かが笑顔になるのだとしたら、私は喜んでお手伝いを続ける。それがたまたま、世間の言う「ボランティア」という活動に当てはまってしまっただけなのだ。ちなみに私は仲間たちから「住職」と呼ばれている。ただ、最近は少し呼び方のニュアンスが変わってきた。文字で表すのは難しいが「ジューショクww」みたいな感じで呼ばれている気がしてならないのだ。「このゴミ捨ててきて、ジューショクww」みたいな使い方である。でも、それがまた心地よい。そんな関係のほうが肩肘かたひじを張らずに続けていけそうだから。