戦国本願寺外伝 第十章 寛正の法難③
間もなく京都では応仁・文明の乱を迎える時代になる。1467年(応仁1)二月の頃、宗祖親鸞の影像を堅田の本福寺に置いた。比叡山延暦寺が本願寺八代蓮如に対してまだ十歳の実如(諱は光養丸)に住職を譲るよう要求したが、蓮如は実如への譲状をすぐには書かなかった。1468年(応仁2)蓮如の返事を待ちきれない比叡山は蓮如がいる堅田を攻撃することを決めた。蓮如は比叡山が武装蜂起している情報を入手して驚いて堅田から大津へ避難した。そして三月二十八日実如に対して譲状を書いた。その内容は、①文正(寛正年間と応仁年間の間の元号)年間に蓮如の長男である順如に住職を譲ることを伝えたが順如は辞退をしたので実如を後継者にする。②親鸞や本願寺のことを正しく守れない場合は兄弟のなかから優れた者が継ぐことにする。③兄弟はたくさんいるので分け隔てなく助け合うように。④これらの内容に反したら終生親不孝とする。しかしこの譲状を書いたときが遅すぎた。翌日の三月二十九日比叡山は堅田を攻撃したが大津にいた蓮如に直接の被害は無かった。またこの堅田では1468年(応仁2)正月、本願寺とは関係のない地侍が第八代将軍足利義政の住む御所に必要な資材を運搬する船を襲った。これに激怒した将軍は比叡山衆徒に堅田へ総攻撃する命令を発した。これらの出来事が重なり堅田衆も応戦するがわずか五日で堅田は焦土と化した。堅田衆は現在の琵琶湖に浮かぶ沖島へと逃げた。この出来事を「堅田大責め」という。
この後、堅田衆と比叡山は2年後に和解することになる。蓮如はこの大責めの直前に三井寺園城寺に頼み込んで園城寺境内南別所の近松という場所に身と影像を移した。この三井寺園城寺は比叡山延暦寺と平安時代より犬猿の仲であり、よっぽどのことがない限り比叡山の者が立ち寄るところではない。ゆえに本願寺としてはこの上にない安全地帯であった。そして先述のとおり蓮如は総攻撃にあう一日前に第八子の実如を後継に指名した。おそらく蓮如は自分の命も危険な状態であると感じていてこうするしか手段がないと考えたのであろう。その後、親鸞の旧跡参拝をするため関東に参ったが詳細は不明であった。一度大津へ帰ったが、十月の半ばには高野山、十津川、吉野へと行った。1469年(文明1)近松に顕証寺が建立され御影を正式に安置することにした。影像を安置する寺院であるから本願寺と名乗りたいところであったがそれは出来ない。寛正の法難で大谷本願寺が破却され、比叡山から本願寺再建も許されていない状態であったため顕証寺とした。後に蓮如が吉崎へ旅立つ際に順如に顕証寺住職を譲った。順如が三十歳の時であった。この後、顕証寺住職として活躍し、蓮如が北陸教化に苦戦しているときも、順如のもつ政治力で朝廷や幕府にはたらきかけた。のちに顕証寺は御影を安置していることにより全国諸国から門徒が参詣することによって人が集まり、三井寺側も経済的に豊かになった。後の山科本願寺に御影を移動する際には三井寺から不満もでたほどであった。そして後の越前の吉崎御坊や枚方の出口光善寺といった浄土真宗の重要な寺院の住職を蓮如より任命されることになる。本願寺第九代という肩書きは手に入らなかったが、順如は蓮如の長男としてあきらかに蓮如に大切にされており、順如もまた最大限に父からの期待に応えていたが四十二歳という若さで亡くなった。
京都では応仁・文明の乱の東西軍による戦が激化した。このことによって朝廷の官職、公家、町衆、僧など様々な人々が都の中心から離れるようになった。寛正の法難によって大谷本願寺は破壊され跡形も無くなった。応仁・文明の乱で大谷本願寺周辺の寺院は焼け落ちたので寛正の法難が起こらなくても大谷の地から本願寺は消え去る運命だったのかもしれない。そして1470年(文明2)十二月蓮如の妻であった蓮祐尼が亡くなった。これがきっかけか定かではないが、比叡山からの総攻撃、本願寺の破壊、京都での戦乱、妻の死、後継者選びなど様々な出来事の末、蓮如は近江国から越前国にある吉崎という新天地に移ることになった。