最後の手紙
先日、近しい方がご往生されて葬儀をお勤めした。この方には家族ぐるみでお世話になり、人生の岐路においては良き助言者でもあり、応援者でもあった。頭脳が明晰であるとともに、いわれのない権威とつまらない権力を一笑に付す爽快さがあった。7年前に体調を崩され、病院での受診の結果、「ステージ4」のガンであると告知された。いわゆる末期ガンである。すでに外科的手術の効果は望めず、抗がん剤と放射線による治療が進められた。当然のことながら、その治療は厳しいものとなった。しかし、ご本人はこれら治療を拒絶することはなく、少しでも長く家族のそばにいることを選択された。
葬儀で導師を勤めた私は、表白の一部で次のようなことを申し上げた。
仏教を開かれた釈尊は、「諸行は無常である、ゆえに怠ることなく努めよ」と説かれました。これは、すべての人は、生まれてからこのかた、ひと時たりとも、同じ姿であることが許されることはなく、変わり続けて、やがて死を迎え、その死も、いつ訪れるかは、誰にもわかりません。だからこそ、その時、その一瞬を精一杯生き抜くようにとの教えです。故人は、徐々に病の進む中も、この釈尊の言葉の意味を自らの二つの姿で私に教えて下さったように思います。一つは、悲しくも変わり行く姿、もう一つは、病の現実を受け入れて、精一杯、病に向き合う姿でありました。
表白とは、「法要や儀式の始めに、その法要などの趣旨を仏祖の尊前で申し上げること。」(『浄土真宗辞典』P.564 引用)であるが、仏祖に申し上げるとともに、法要や儀式の参列者にその趣旨を伝える意味もある。そして今回は、その生きようを通していろいろなことを私に教えてくださった故人へ向けて、私からの感謝を伝える最後の手紙でもあった。
葬儀を終えて自宅に帰り、「会葬御礼」を拝読した。「会葬御礼」とは、一般的には、「故人が生前中にお世話になった御礼」「通夜や葬儀に参列していただいた御礼」「故人と同様に今後とも遺族と懇意にしてもらえるようにとの依頼」これらの内容を遺族などが手紙として記すものである。しかし、この「会葬御礼」の差出人はご遺族ではなく、故人の名前が記されていた。その一部を抜粋する。
死は私一人に訪れた問題ではなく、誰しもに等しく訪れる問題です。死を見つめることは、最後までの自分の「生」を考え抜くことにつながっています。にもかかわらず、とかく「死」は遠くに押しやられてしまい、考えることが難しい存在になっています。本日ご会葬いただいた皆様には私の死を通して、どんな最後をそれぞれが迎えるのか、迎えたいのかを考える機縁となっていただきたいと願います。どうか私の死を無駄にしないよう心よりお願い申し上げます。
人生の岐路において良き助言者であった故人からの宿題であり、いずれ私が病となり死に向き合う未来の道しるべとなる。 そして、これが故人からの最後の手紙となった。この日は、まもなく立夏で雲一つ浮かばず、故人の笑顔を思い起こす爽快な空であった。
※コラム掲載をご承諾くださいましたご遺族に感謝の意を表します。