名の由来とその願い

【なのゆらいとそのねがい】

私にはもうすぐ21歳になる息子がいる。名は「りょう」である。今回はこの子の名をどのような願いでつけたのか、名のらいしめしながらべていく。

「了義」にはそもそも、「あきらかな(ことわり)を持つもの」という意味がある。このことから、ぶっきょうでは「しん全相ぜんそうが明らかにき示された教え」(『浄土真宗辞典』P.688より)とされ、こうした教えを説くきょうてんを「りょうきょう」という。これに対して真実が十分に説き示されていないものを「りょう」「りょう」「りょうきょう」などと呼ぶ。じょうしんしゅう宗祖しゅうそ親鸞しんらんは、念仏ねんぶつの教えを「了義」、諸善しょぜんまんぎょうを「不了義」とし、『ぶっせつりょう寿じゅきょう』を「了義」、『ぶっせつかんりょう寿じゅきょう』を「不了義」とした(『禿とくしょう』「いちじょうきょう」※1)。

ここまでで、「了義」が仏教ようであることが分かったと思うが、この言葉はさまざまな『きょう』『ろん』『しゃく』に使われている。その中で私が名をつけるに当たってきょしたのは、親鸞の『けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)「しんかん」である。これは親鸞がみずからの「さんがんてんにゅう」(※2)をしるした後に、何をりどころとしてぶつどうを歩むのかについて『だいろん』(※3)を引用している箇所である。この文は、しゃくそんにゅうめつの様子が記されている『大般だいはつはんぎょう』にあるもので、釈尊が弟子でしたちに自らが入滅した後に、何を依りどころとしていくのかを示した「ほう」と呼ばれるものである。『教行信証』には、

大論だいろん』(大智度論)にしゃくしていはく、「はんりなんとせしとき、もろもろの比丘びくかたりたまはく、〈こんにちよりほうりてにんらざるべし、りてらざるべし、りてしきらざるべし、りょうきょうりてりょうらざるべし。(後略)

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.414 より)

【現代語訳】
だいろん』によっつのりどころについてつぎのようにいわれている。 「しゃくそんがまさにこのからろうとなさるとき、比丘びくたちにおおせになった。〈今日きょうからは、おしえをりどころとし、ひとってはならない。おしえの内容ないようりどころとし、ことってはならない。真実しんじつ智慧ちえりどころとし、人間にんげん分別ふんべつってはならない。ほとけのおこころが完全かんぜんしめされたきょうてんりどころとし、ほとけのおこころがじゅうぶんしめされていないきょうてんってはならない。(後略)

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.530-531 より)

とある。釈尊は「法(しん)」「義(ぶつしん)」「智(仏の)」「了義経(仏の完全な教え)」を真実であり、「人(私の意見を混ぜる人)」「語(仏の真意でないうわべの言葉)」「識(人の知恵)」「不了義(不完全な教え)」をいつわりとする。つまり、真実をたよりに生きろということである。

さて、ここまででわかるように、私は「了義」を「真実」という意味で使用した。ただし、この語句を使用しての願いは、息子に「真実」の人になってほしいということでは決してない。親鸞の言葉を借りるならば、人間はどこまでも「じつ(嘘、偽り)」であり、そもそも「真実」の人になどなれるはずがない。息子には自分自身が「真実」を持ち合わせない「嘘、偽り」の人間であると自覚をしてほしい。

私たちは、うっかりすると24時間365日「嘘、偽り」の人生を歩んでいる。だからこそ、生きていく上で「真実」というものしを見つけなければならない。物差しは、365日は使えきれないとしても、人生の節目の重要な決断には必要となってくる。そして私にとっての物差しは、仏教であり親鸞が伝えたみおしえやその生き方である。だからといって、息子にもその物差しを使えとは言わない。それが浄土真宗や仏教のみ教えでなくとも構わない。ただ、上から目線で教えを説く者や、うわべの言葉、人間の知識のみを信用してはならない。参考にするのと信用をするのとでは、もっなることがらである。

息子には息子の「了義」を求めてほしい。きみは「了義」にはなれないが、「了義」に向かって歩んでいくことはできるはずだ。

これが私の願いである。そう、ここまで読んで「虚仮不実」である親の願いが真実とは限らないと感じたなら、この稿を理解してくれたことになる。

了義!

真実は自身でうなずくものだ!

※1 『愚禿鈔』
二巻。親鸞の著作で上下二巻であるので『かんしょう』ともいう。じょうかんでは親鸞どく教相きょうそう判釈はんじゃくを示し、かんでは『かんりょう寿じゅきょうしょ』(善導ぜんどう)の「さんしんじゃく」について解説をしている。
※2 三願転入
親鸞の信仰の過程とされるもので、『仏説無量寿経』のだいじゅうがんからだいじゅうがんへ、第二十願から本願ほんがんであるだいじゅうはちがんへと変遷へんせんしていったことが『けん浄土じょうど真実しんじつきょうぎょう証文類しょうもんるい』「しんかん」にしるされている。
※3 『大智度論』
100巻。著者はりゅうじゅとされてきたが、はっきりとしない。訳者やくしゃじゅう。『はんにゃみつきょう』のちゅうしゃくしょ

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[2] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[3] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)