高橋源一郎の『一億三千万人のための『歎異抄』』を読んでみた
高橋源一郎、通称「タカゲンさん」は私の大学時代のアイドルだった。『さようなら、ギャングたち』『ジョン・レノン対火星人』『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』の初期三部作は文庫本で繰り返し読んだし、タカゲンさんが翻訳したジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』は当時の友人に布教しまくった(誰一人、面白いとは言ってはくれなかったが)。そのタカゲンさんが『歎異抄』を現代語に訳した、ということを知り、私はすぐに書店に走った。しかし、一軒目二軒目ともに売り切れで、電車に乗ってたどり着いた三軒目の書店でやっと最後の一冊を入手した。こう言っては失礼だが、タカゲンさんの書いた本でここまで売れているのは、ちょっと記憶にない。
帰ってさっそく読んでみると、売れている理由がわかるような気がした。というのも、今までの『歎異抄』の現代語訳の中では一番といってよいほど、「わかりやすい」のだ。『歎異抄』という本は、不思議な魅力のある本らしく、本当にたくさんの人が訳してきた。それも仏教学者や真宗学者に限らず、だ。ちなみに、私にとって『歎異抄』という本は、前半と後半のつながりが悪く感じられ、読んでいて違和感が残る本であった。はっきり言ってしまうと、後半部分はかなり(著者とされる)唯円の思想が入り込み、親鸞の言葉から離れているように感じられて苦手なのだ。しかし、タカゲンさんの『歎異抄』を読むと、その「違和感」や「苦手」がまったく感じられない。まるで目の前で唯円と親鸞が会話しているのを盗み聞きしているようで、あっという間に読み終えてしまった。タカゲンさんは、根っからの小説家なのだろう。『歎異抄』を唯円が主人公の一本の短編小説のように現代語に訳したのだ。それは全編が唯円の一人語りのようになっていて、あくまで「唯円の聴いた親鸞の声」という構成になっている。言い換えれば、「親鸞が語った言葉」を唯円が再構築したということが、タカゲンさんの訳からはよく理解できる。有名な「第三条」の冒頭を例に引こう。最初に『浄土真宗聖典 -註釈版-』より該当部分を引き、次に本願寺出版社から出された『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』、現代語訳の比較として2021年に出版された作家で詩人の伊藤比呂美による訳(『伊藤比呂美の歎異抄』より引用)、最後に今回のタカゲンさんの訳を引いている。
『浄土真宗聖典 -註釈版-』
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.833より)
『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』
善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』 P.9 より)
『伊藤比呂美の歎異抄』
「善人だって浄土に生まれかわるんだから悪人にできないわけはない。ところがふつう世間の人はこういうのだ。悪人だって浄土に生まれかわるんだから善人にできないわけはない、と。これは一理あるようだが『何もかもおまかせする』という考えからするとまちがいなのだ。
(『伊藤比呂美の歎異抄』P.19より)
『一億三千万人のための『歎異抄』』
あるとき、「あの方」はぼくにこういった。
「善人でさえ、死んでからゴクラクジョウドに行くことができるのだから、悪人なら当然行けるはずだ。おれはそう思うんだ。わかるかい、ユイエン。ふつう、そうは思わないだろう。『あんなひどいことをした悪人でさえ、救われてジョウドに行けるのなら、善人はもう無条件でゴクラクジョウド行き確定だよな』って思う。それがふつうの考え方だ。確かに、ぼんやり聞いていると『ふつうの考え』の、その論理は正しそうに思える。ユイエン、でもそうじゃないんだ。それは、おれたちが信じている『本願他力(ホンガンタリキ)』、つまり『すべてをアミダにおまかせする』という考えからは遠く離れた考えなんだ。
(『一億三千万人のための『歎異抄』』P.35-36より)
いかがであろうか。伊藤比呂美は言葉を刈り取り、まるで一編の詩のように訳しているのに対して、タカゲンさんの訳はかなり饒舌だ。まぁ、タカゲンさんはポリシーとして注釈を絶対に付けない、という作風なので、饒舌にならざるを得ないということもあるが、それを差し引いたとしても、かなりおしゃべりな親鸞ではある。しかし、そのおかげか、圧倒的に「わかりやすい」。そして、唯円は「ユイエン」に、極楽浄土は「ゴクラクジョウド」に、阿弥陀は「アミダ」にと、片仮名表記に替えて訳されている。それは、親鸞や本の題名も同様で、文中ではやはり「シンラン」や「タンニショウ」と片仮名で表記される。これもまた、「わかりやすい」の一因であろう。
この独特の表記についてタカゲンさんは、こう語る。
現実の世界ではひとりしかいない「親鸞」も、ひとたびことばの世界の住人になったとき、それを読む人たちの数だけ存在するのである。だから、ぼくは、いままで読んできたたくさんの「親鸞」のどれともちがう「親鸞」のことを書きたいと思った。ぼくが感じた、ぼくが理解した「親鸞」のことを書きたいと思った。だから、他のみんなの「親鸞」と区別するために、それを「シンラン」と呼ぶことにした。それは、ぼくだけの「シンラン」という意味だ。
(『一億三千万人のための『歎異抄』』P.11 より)
つまり、この『一億三千万人のための『歎異抄』』という本はタカゲンさんが感じた「シンラン」や「タンニショウ」について書かれた本である、ということだ。であるならば、「自分の感じたものをそのまま読者に伝える」という部分を重視し、原文には無いニュアンスを付け加えるというタカゲンさんの手法は、原典主義者からは批判をされるだろうが、かなり上手くいっていると言えるだろう。そして、それ故にこの本は圧倒的に「わかりやすい」。
しかし、この「わかりやすい」は読者を引きつける反面、危険性もはらんでいる。タカゲンさんの「タンニショウ」は一読して、あまりに「わかりやすい」ために、そこで終わってしまう恐れがある。この本を読み終えた時点で「ほぉ、浄土真宗とはこういう教えなのか」と、思考停止して終わってしまう危険性があるのだ。言うまでもなく、『歎異抄』にすべての親鸞思想が詰め込まれているわけではない……どころか、どうも親鸞の思想とは相容れない部分さえある、と私は思っている。タカゲンさんの『タンニショウ』は、『歎異抄』という本がもともと持っている危険性をそのまま伝えてしまう結果になりかねないのだ。
もちろん、タカゲンさんもそこに気づかないわけはない。タカゲンさんは何度も「この本を読んだあと、ひとりひとりの『タンニショウ』を見つけてほしい。できれば自分で訳してほしい」と書いて、ご丁寧にも末尾に『歎異抄』の全文を掲載している。しかしながら、これだけ売れてしまった本なのだ。何人の人がタカゲンさんの真意に気づくであろうか。何人の人が「わかりやすい」を乗り越えて「わかりにくい」世界へと踏み入れてくれるのであろうか。
しかし、安心してほしい。この文章を読んでいるあなたは、わざわざ「真宗の本棚」というサイトまでやってきた、もうすでに「わかりにくい」世界へと一歩を踏み出した勇気のある人だ。このコラムを読んだあと、このサイトにある他のコラムや仏教知識も読んでいただきたい。
・・・・え?肝心の『歎異抄』の仏教知識が見当たらない?大丈夫、それはあなたが自分自身の「タンニショウ」を見つけるときまで取ってあるのだ。あなた自身が借り物でない知識で仏教知識『タンニショウ』を書き上げてほしい。あ、いまあなたは「そんな他力本願なことを言われても」とか思ったはずだ。いやいや、その他力本願は誤用。いまのは正しくは「他人任せ」と言うべきである。え?これは私の理解した「他力本願」だから「タリキホンガン」であって「他力本願」の誤用ではないと?まだいうか、キミは。だからその「タリキホンガン」は「シンラン」の「他力本願」とは違うから、誤用だと指摘してんだよ。いや、「ホウネンのシンジンとシンランのシンジンは一緒なのだから、ワタシのタリキホンガンとシンランのタリキホンガンは一緒だとシンランなら言うはずだ」?。わからん人だな、キミは。そういうのを「本願ぼこり」と・・・え?「その本願ぼこりこそホンガンボコリ」?「だいたいホンガンボコリなんてシンランが書いているならその証拠を出せ」だと?なにげに痛いところを突いてくるんじゃないよ、キミは。わかったよ、書けばいいんだろ。書くよ、仏教知識『歎異抄』を。これで文句ないだろ。書くのは俺じゃないけどな。と云々。
と、上のような文章が続く高橋源一郎の初期三部作もおすすめしておこう。タカゲンさんがなぜ親鸞に出会い、シンランとして現代によみがえらせたのか、がわかっていただけるであろうから。あと、しつこいようだが『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』は本当におすすめ。面白いって言われたことないけど。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 2014年)
[3] 『一億三千万人のための『歎異抄』』(高橋源一郎 朝日新聞出版社 2023年)
[4] 『伊藤比呂美の歎異抄』(伊藤比呂美 河出書房新社 2021年)