仏法を伝えることの難しさ
仏法を伝えることは難しい。「正しい」ことをそのまま伝えることが、伝えたい人への「解」になるとは限らない。仏教を開かれた釈尊は、伝え方の名人であった。もっとも釈尊はさとりを開かれた仏であるので、この表現は不適切なのかも知れない。悲しみ苦しみ悩む人、一人ひとりに向き合って、その状況に応じてやさしく語りかけた。これを医師が患者の病を適切に診断し、治療・投薬をすることに譬え「応病与薬」という。
釈尊は、わが子を亡くして悲しみの中を彷徨う女性に、
そなたは自分の子供だけが亡くなったと思っていますが、死は生けるものの定めです。死王は、大洪水のように、生けるものの望みが叶わぬうちにすべてを運び去り、苦海に投げ入れます。(法句註)
不死(※1)の境地を見ることもなく 百年生きながらえるより
不死の境地を見通して 一日生きる方がまさる(法句一一四)
(『ダンマパダ 全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』P.167より)
と仏法(真理(※2))を説いたことが『ダンマパダ・アッタカター』(『法句註』ブッダゴーサ)や『ダンマパダ』に記されている。しかし、出会ってすぐにこれを説いた訳ではない。
※1 不死 ...... この場合「死の苦しみからの解放」「生死の現実を受け容れること」を指す。
※2 真理 ...... 「ほんとうのこと」「正しいこと」「変わらないもの」。仏教では「法」という。
キサー・ゴータミーの悲しみ
わが子を亡くして苦しんでいた女性の名をキサー・ゴータミーという。キサー・ゴータミーは、コーサラ国のシラーヴァスティー(舎衛城)の貧しい家に生まれた。名の「キサー」とは「やせた」という意味であり、幼少期の苦労が忍ばれる。やがて、同じ都市の裕福な家庭に嫁ぐが「貧しい家の娘」であると軽蔑されたという。その後、ゴータミーが男の子を出産すると周囲の差別の眼差しも変わっていき、ゴータミーは「幸せ」になったかのように感じていた。しかし、ゴータミーにとって「幸せ」と感じた時間は、そう長くは続かなかった。なぜならば、よちよち歩きをようやく始めた愛児が急死したからである。
わが子の「死」を受け容れられないゴータミーは、悲しみに彷徨っていく。わが子の亡骸を抱いて、「この子に薬を下さい」と生き返る薬を求めて町中を歩いた。町中で気が転倒したゴータミーを取りあう人は少なかったが、ある人が彼女のことを哀れに思い「今、この町の祇園精舎におられる釈尊ならば、その薬のことをご存じだろう」とアドバイスをした。ゴータミーはすぐに、祇園精舎の釈尊を訪ねて改めて「この子に薬を下さい」と懇願する。釈尊は、この願いを聞き入れて「薬を作ってあげよう。ただし、いまだかつて死人を出したことがない家の芥子の種が一握り必要である。」とゴータミーに話した。
ゴータミーは、これでわが子が生き返ると思いながら、町中の家を訪ねていった。わが子を生き返らすために芥子の種が必要であると伝えると、譲ってあげようという人はたくさんいた。しかし、「この家から死人が出したことはないですか?」と尋ねると、哀しい顔をしながら実は、「父を」「母を」「子どもを」「妻を」「夫を」亡くしたと皆が首を横に振る。それでも諦めきれないゴータミーは、町中の家をすべて訪ねたが「いまだかつて死人を出したことがない家」はわずか一軒もなかった。ゴータミーはようやく、釈尊が何を伝えようとしていたのかを理解して、町はずれの墓場にわが子の亡骸を葬った。祇園精舎に戻ると、釈尊から「芥子の種は手に入ったか?」と尋ねられたゴータミーは、「私にはもう芥子の種は必要ありません。町中のどの家でも死なない人など一人もいないとわかりました。釈尊、私に真理を説いて下さい」と懇願した。
ここで初めて冒頭の真理を説いたという。ゴータミーが「この子に薬を下さい。」と訪ねてきたときに、この真理を初めに説いていたなら、ゴータミーは傷つき、その悲しみはよりいっそう深くなり、再びわが子の亡骸を抱いて彷徨ったかも知れない。正しいことをそのまま伝えることが、伝えた相手の人生の「解」になるとは限らない。
悲しみからの転換
これによってゴータミーの悲しみの現実が変わったわけではない。しかし、ゴータミーは、これまで知らなかった、知ろうともしなかったことに気付いていく。多くの人びとが、悲しみや苦しみの中で生きている。その悲しみや苦しみは、ゴータミーの悲しみや苦しみと同じということはなく、人それぞれに違う。そして、釈尊のもとで出家したゴータミーは、自身の悲しみや苦しみを転じて、他の悲しみや苦しみを抱える人びとへのやさしさを持つこととなった。また、出家してからはいつまでも粗末な布を集めた衣を着て、自らを律して修行に励み「粗衣第一」と称されるようになった。やがて仏教教団を代表するほどの僧侶となった。
仏法を伝えていくこと
僧侶である私は、仏法を伝えることの難しさを痛感している。釈尊のように聞いてくれる門徒さんの心の内のすべてはわからないし、これまで歩んでこられた人生を見通す力も持ち合わせない。だからといって、「私は仏ではないので」と開き直り、仏法に触れることなく世間話に終始するのであれば、僧侶をやめるのが無難であろう。人を傷つけ迷惑をかけることもあるが、釈尊の「応病与薬」に倣って、少しでも一人ひとりの苦しみを想像して、注意深く話すことを心がけたい。
参考文献
[2] 『仏弟子の生涯 下<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)
[3] 『ブッダとその弟子89の物語』(菅沼晃 法蔵館 1990年)